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仁比山神社
にいやまじんじゃ
佐賀県神埼市神埼町仁比山1692
Tel 0952-53-0340


 仁比山神社は大山咋命(おおやまくい)を主神とする古社で、農事の神として崇敬されています。
 天平元年(729)に聖武天皇の勅願により松尾明神を勧請して創祀したといわれています。仁王天皇の仁と比叡山の比を合わせ、仁比山護国寺としたそうです。
 かっては不動院、吉祥院など36の坊があり、現在の九年庵の場所に護国寺があったそうです。社殿裏には万病に効くとされる清水が湧いています。



伊藤玄朴旧宅
いとうげんぼくきゅうたく
佐賀県神埼市神埼町的1675


 伊藤玄朴旧宅は仁比山神社の参道の中ほどにあります。伊東玄朴は長崎でシーボルトに学んだ江戸蘭学四大家の一人です。その玄朴が21歳までを過ごし医業を営んでいたのがこの伊東玄朴旧宅です。文政4年(1821)に建てられた茅葺き屋根、5.5間、4間の小さな平屋建てです。
 伊藤玄朴は種痘を導入し当時致命的な病気であった天然痘から多くの人々を救いました。藩主鍋島直正が玄朴の進言を受け入れ、我が子に種痘を試みさせた話は有名です。
 玄朴はわが国における西洋医学の父と呼ばれ、のちの東京大學医学部にあたる西洋医学所の創設者になりました。



九年庵
くねんあん
佐賀県神埼市神埼町仁比山


 九年庵は佐賀の大実業家・伊丹弥太郎が明治25年(1892)に造った別荘と明治33年(1900)から9年の歳月をかけて造った6800uの庭園です。11月中旬の紅葉の時期に9日間、一般公開されるそうです。
 かってはこの場所に仁比山神社の護国寺が建てられていたそうです。苔むした庭園や葦葺き屋根、竹格子の連小窓が印象的でした。



吉野ヶ里遺跡
よしのがりいせき
佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843
Tel 0952-55-9333


 吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡の神埼(かんざき)町・三田川(みたがわ)町・東脊振(ひがしせふり)村の3つの町村にまたがった我が国最大の弥生時代の環壕集落遺跡です。 
 この遺跡は(1986)からの発掘調査によって発見され、現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園となっています。
 物見やぐらや二重の環濠など敵からの侵入を防ぐ工夫がなされていて日本の城郭の始まりとも推察されています。平成18年(2006)、日本百名城にも選ばれています。
 環濠の内部からは千戸以上の竪穴住居跡や、物見やぐらとみられる数ヵ所の建物跡、高床倉庫と推定される堀立柱建物群が見つかっています。また、有柄銅剣やガラス製管玉などが出土され、国の重要文化財に指定されています。
 また、首長を葬る「墳丘墓」やたくさんの「かめ棺墓地」も見られます。首なし人骨なども含め多数の人骨が発見されています。
 紀元前3世紀から紀元後3世紀までの弥生時代は、日本で稲作の文化が始まり、定住文化が根付いた日本の文化の原点ともいえる時代です。この遺跡は日本の様子を記した最古の記録である魏志倭人伝に出てくる「邪馬台国」に酷似しており国の特別史跡にも指定されています。



筑後川昇開橋
ちくごがわしょうかいきょう
佐賀県佐賀市諸富町大字為重
福岡県大川市大字向島


 筑後川昇開橋は国鉄佐賀線の鉄道橋梁として建設され、昭和10年(1935)竣工、同年5月25日に開業しました。橋桁の一部が垂直方向に上下する昇開橋として日本に現存する最古のもので国の重要文化財に指定されています。
 橋の全長は507m、中央部は高さ30mの2本の鉄塔に沿って23mの高さまで水平昇降をすることができます。開通当時は「東洋一の可動式鉄橋」と呼ばれ話題を呼んだそうです。
 昭和62年(1987)3月、佐賀線の廃止とともに役目を終えました。筑後川のシンボルを存続させようと近隣住民の熱意が実り、平成8年(1996)遊歩道として蘇りました。



佐賀城
さがじょう
佐賀県佐賀市城内1
Tel 0952-22-0555


 佐賀城は佐賀藩35万7千石の藩主鍋島氏の居城で佐嘉城、沈み城などとよばれました。沈み城とは城が樹木の中に沈み込んで見えることや、幾重にも巡らした外堀を、攻撃にあった時は主要部以外は水没させる仕組みになっていたことから名付けられたそうです。
 佐賀城のもとになった城は龍造寺氏が居城としていた村中城でした。九州北部に勢力を構えていた龍造寺隆信は天正12年(1584)、島津・有馬連合軍に敗れ戦死してしまいました。それ以後龍造寺家臣であった鍋島直茂が実権を握り、佐賀県の大半を領有し慶長7年(1602)本丸の改修に着手しました。
 慶長16年(1611)、2代藩主鍋島勝茂が直茂の縄張に従って完成させました。5層の天守閣の下には幅80mにも及ぶ広大な内堀が造られました。
 享保11年(1726)、佐賀城は大火に見舞われ、天守以下本丸建造物の大半が焼失してしまいました。天保6年(1835)の火災では政務を行なっていた二の丸が焼失したため本丸を再建しそこで政務を行ないました。しかし天守は享保の火災以後再建されませんでした。
 明治7年(1874)、江藤新平を中心とした佐賀の乱が起こり佐賀城はこの反乱軍に占拠され、戦闘の際に建造物の大半を失なってしまいました。唯一焼失を免れた鯱の門には当時の弾痕が現在も生々しく残っています。
 鯱の門は二重二階の櫓門で一重二階の続櫓と石垣の上で接続しています。屋根は本瓦葺き入母屋造りで、棟の両端に青銅製の鯱が載っています。この城門と櫓は国の重要文化財に指定されています。



与賀神社
よかじんじゃ
佐賀県佐賀市与賀町2ー50
Tel 0952-23-6091


 与賀神社は佐賀城跡の西側にある神社で豊玉姫命(とよたまひめのみこと)他、7柱を祀っています。創建は欽明天皇26年(6世紀)と伝えられています。
 鎌倉時代は「与賀庄鎮守宮」で、建暦2年(1212)、北条義時が社殿を再興、寛元3年(1245)、執権北条経時が勅を奉じて祭祀の礼式を定めたと伝えられています。現在の社殿は宝暦8年(1758)に鍋島宗教・重茂が造営し、佐賀城の鎮守になっています。
 朱色の楼門は、入母屋造り、屋根は入母屋造りで当初柿葺で、その後銅板葺屋根に改められ現在に至っています。正面3間、側面2間の礎石建物です。室町後期の建物で、大正2年国宝に指定され、改めて昭和25年国の重要文化財に指定されました。 佐賀県内では最も古い木造建築物です。
 慶長8年(1603)に造られた三の鳥居、慶長11年(1606)建造の石橋も、国の重要文化財に指定されています。また境内の大クスノキは県の天然記念物に指定されています。



佐嘉神社
さがじんじゃ
佐賀県佐賀市松原2ー10ー43
Tel 0952-24-9195


 佐嘉神社は佐賀藩10代藩主鍋島直正と11代藩主鍋島直大を祀っています。直正歿後の明治6年(1873)、威徳を賛え、鍋島家の祖先を祀る松原神社に南殿を造営し祀り、昭和8年(1933)にこの佐嘉神社を造営し直正の霊を遷座しました。また昭和23年(1948)には松原神社南殿に祀られていた直大の霊を佐嘉神社に合祀しました。
 直正は西洋文明をいち早く取り入れ、我が国初の様式反射炉を造営して近代大砲を造りました。貧農救済と藩財政の建て直しに尽力し、大隈重信・江藤新平らの人材を育成しました。直大は戊辰戦争で官軍として戦い、明治2年(1869)には版籍奉還を申し出ました。



松原神社
まつばらじんじゃ
佐賀県佐賀市松原2ー10ー43
Tel 0952-24-9195


 松原神社は安永元年(1772)、鍋島家の始祖鍋島直茂を祀る神社として創建され、直茂の法号から日峯(にっぽう)大明神(日峯宮)と称しました。現在も「日峯さん」と呼ばれ信仰されています。
 文化14年(1817)に直茂の祖父である清久と直茂の公室の彦鶴姫を合祀しました。明治5年(1872)、初代藩主の勝茂を合祀し、「松原神社」と改称しました。
 明治6年(1873)、本殿の北と南に新たに神殿を造営し、南殿に10代藩主鍋島直正を、北殿に鍋島氏以前に佐賀を治めていた龍造寺家の隆信、政家、高房を祀りました。大正12年(1912)南殿に、2年前に歿した11代藩主鍋島直大を合祀しました。
 昭和8年(1933)に佐嘉神社が造営され、南殿の鍋島直正の霊を遷座しました。そして昭和23年(1948)、南殿の鍋島直大の霊も佐嘉神社に遷座しています。昭和36年(1961)佐嘉神社と松原神社は運営を一本化しています。



大隈記念館
おおくまきねんかん
佐賀県佐賀市水ヶ江2丁目11ー11
Tel 0952-23-2891


 大隈記念館は大隈重信の誕生125年を記念して、昭和42年(1967)10月に開館しました。明治から大正時代にかけての偉大な政治家であり、早稲田大学の創設者としても有名です。ここでは彼にまつわる歴史資料を数多く展示しています。建物は早稲田大学名誉教授今井兼次博士のデザインによる鉄筋コンクリート造り2階建てで、重信のどっしりして動かない姿をイメージしているそうです。
 大隈重信は明治新政府の参議、大蔵卿などを歴任、明治14年(1881)の政変で下野し、翌年立憲改進党を組織して総裁になりました。明治21年(1888)黒田内閣の外相となり不平等条約改正に尽力しました。
 明治22年(1889)国家主義組織玄洋社の来島恒喜に爆弾による襲撃を受け、右脚を失いました。明治31年(1898)、大正3年(1914)と2度政党内閣を組織して総理大臣に就任しました。



大隈重信生家
おおくましげのぶせいか
佐賀県佐賀市水ヶ江2丁目11ー11
Tel 0952-23-2891


 大隈重信は、佐賀鍋島藩士、大隈重伴の嫡男として天保9年(1838)2月16日に生まれました。重信が生誕したこの生家は天保以前の武家屋敷の面影を残した貴重なもので、国の史跡に指定されています。
 大隈重信生家は佐賀地方に多い「かぎ屋造り」で一部平屋茅葺きに一部2階建ての瓦葺きとなっています。2階は重信のために母親が建て増したそうです。
 庭園には政治家・波多野敬直の筆による「大隈重信侯の誕生地」の記念碑が建っています。生家から庭を隔てた東側に大隈記念館があります。



香椎神社
かしいじんじゃ
佐賀県佐賀市久保田町徳万1556
Tel 0952-68-2655


 香椎神社は神功皇后、応神天皇、住吉大神を祭神として祀っています。社殿正面の門は四脚門で、佐賀県の重要文化財に指定されています。屋根は切妻造りで本瓦葺きです。
 創祀は安元3年(1177)頃で、窪田因幡守藤原利常が、仲哀天皇、神功皇后の行在所であった、筑前の香椎宮より勧請したと伝えられています。10月第3日曜の秋の大祭には、伝統芸能の浮立が奉納されるそうです。



多久聖廟
たくせいびょう
佐賀県多久市多久町1642
Tel 0952-75-5112


 多久聖廟は全国の孔子廟の中でももっとも壮麗といわれ、数多くの観光客が訪れれています。学問の神様としても有名です。
 江戸時代、多久領は多久氏によって治められていました。多久家4代を継いだ多久茂文(しげふみ)は佐賀藩2代藩主鍋島光茂の3男で、幼くして多久茂矩の養子となりました。
 茂文は多久領を治めるためには教育が必要と考え、学校と孔子像を安置する聖廟の建設に着手しました。
 元禄12年(1699)、まず学問所(後の東原庠舎(とうげんしょうしゃ))を建設し、講堂に孔子像を安置しました。宝永5年(1708)に椎原山の麓に聖廟(恭安殿)を完成させ、孔子と四配(顔子、曾子、子思子、孟子)像を納め、祀っています。
 多久聖廟は中国風の外観で、桁行3間、梁間4間、1重裳階付きの妻入りで、屋根は入母屋造りの本瓦葺きです。正面には唐破風造りの1間の向拝が付いています。国の重要文化財に指定されています。



呼子大橋
よぶこおおはし
佐賀県唐津市呼子町殿ノ浦


 呼子大橋は唐津市の呼子地区と加部島を結ぶ全長728mの斜張橋で平成元年(1989)に開通しました。
 港町呼子(よぶこ)はイカの活け造りや呼子の朝市などが有名です。加部島には田島神社や佐用姫伝説などが残されています。



田島神社
たしまじんじゃ
佐賀県唐津市呼子町加部島3965ー1
Tel 0955-82-3347


 田島神社は呼子大橋で結ばれた加部島の北東端にあります。天平10年(738)、聖武天皇から大伴古麿を勅使として、田島大明神の神号を贈られ、延喜式神名帳にも記されている肥前国第一の大社です。
 祭神は田心姫尊(たごりひめのみこと)、湍津姫尊 (たぎつひめのみこと)、市杵島姫尊 (いちきしまひめのみこと)の3女神です。相殿には大山祇神(おおやまつみのかみ)、稚武王(わかたけのみこ)を祀っています。
 海上安全の神として古くから朝廷の尊崇が厚く、大同元年(806)平城天皇から神封16戸を賜わっています。陸海交通安全、大漁満船、五穀豊穣、開運厄除けに効能があるようです。
 境内には県下最古の頼光鳥居や、恋愛成就の神として人気がある佐用姫(さよひめ)神社もあります。元冦の時に使われた碇石、豊臣秀吉が名護屋城に布陣した時に使用したといわれる太閤石なども見ることができます。
元冦の碇石



佐用姫神社
さよひめじんじゃ
佐賀県唐津市呼子町加部島3965ー1(田島神社内)
Tel 0955-82-3347


 佐用姫神社は田島神社の末社で日本三代伝説のひとつ松浦佐用姫を祀っています。佐用姫が夫との別れを悲しんで石になったといわれる望夫石があります。
 松浦の藤原村の長者の娘 佐用姫は夫である大伴狭手彦の船出を悲しんで、鏡山(唐津市)の頂から領巾(ひれ)をちぎれんばかりに振りつづけ名残を惜しみました。しかし別れがたく船を追って加部島にたどり着き、やがて泣き伏したまま石になったという伝説です。



田島神社資料館
たしまじんじゃしりょうかん
佐賀県唐津市呼子町加部島3956
Tel 0955-82-5193


 田島神社資料館は呼子町観光物産館と同じ建物内にあります。延喜式神名帳にも記されている肥前国第一の大社、田島神社の資料などを展示、所蔵しています。
 また観光物産館では常設展示場として捕鯨に関する資料を展示しています。かつて捕鯨基地として栄えた呼子の歴史を知ることができます。



名護屋城跡
なごやじょうせき
佐賀県唐津市大字名護屋
Tel 0955-82-4905


 名護屋城は、全国平定をなしとげた豊臣秀吉がさらに朝鮮半島、明国へ向けて出兵(文禄、慶長の役)するため、その本拠地として築かせた城です。
 もと名護屋氏代々の居城があった垣添山の要害を拡張し、加藤清正の縄張で天正19年(1591)に着工し、翌文禄元年(1591)に完成させたそうです。
 名護屋城は当時の城郭では大坂城に次ぐ広大なもので、本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪などを配し、本丸北西隅に5重7階の天守が築かれました。
 慶長3年(1598)、秀吉の死によって全軍撤収し名護屋城もその役割を終えました。廃城となり資材などは唐津城に用いられたそうです。
 寛永14年(1637)、島原の乱が起きました。徳川幕府は一揆が名護屋城に籠るのを危惧し、石垣の要所を破壊したり、井戸を埋め廃墟になりました。



名護屋城博物館
なごやじょうはくぶつかん
佐賀県唐津市大字名護屋1931ー3
Tel 0955-82-4905


 佐賀県立名護屋城博物館は平成5年(1993)にオープンしました。朝鮮侵攻という過去の史実に基づいて日本列島と朝鮮半島との交流史を展示テーマに、日韓の友好の絆を深めるために建設されました。
 名護屋城以前、名護屋城以後、歴史の中の名護屋城、特別史跡名護屋城跡並びに陣跡の4つのゾーンに分けて展示しています。



唐津城跡
からつじょうせき
佐賀県唐津市東城内
Tel 0955-72-5697


 唐津城は、文禄2(1593)に、初代唐津藩主寺沢志摩守広高が、松浦川河口の満頭山に唐津城を築き、城下町を開いたことに始まります。
 広高は豊臣秀吉の側近で、築城には名護屋城の解体資材を用いたといわれています。朝鮮出兵の本拠地であった名護屋城の後詰の城として急遽築かせたようです。
 天草も支配していた2代藩主寺沢堅高は、寛永14年(1637)の天草島原の乱の責任を問われ天草富岡城4万石を没収されました。正保4年(1647)堅高が自殺したため、寺沢氏は2代で断絶し、幕府の直轄地となりました。
 慶安2年(1649)播磨明石より大久保忠職が8万3千石で入封しました。その後、大久保氏2代、松平氏3代、土井氏4代続きました。その後、宝暦12年(1762)三河岡崎より水野忠任が6万石で入封しました。
 文化14年(1817)、水野氏4代忠邦が遠江浜松に転封となると、替わって陸奥棚倉から小笠原長昌が6万石で入り、以後、小笠原氏が5代続いて明治を迎えました。
 明治4(1871)、廃藩置県とともに、廃城となり取り壊されました。昭和41年(1966)旧天守台跡に5層5階、地下1階の美しい天守閣が建てられました。



田嶋神社
たしまじんじゃ
佐賀県伊万里市波多津町畑津1260


 田嶋神社は伊万里市の畑津(はたつ)地区にあります。祭神は、多岐津姫命(たぎつひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)の宗像三女神(むなかたさんじょしん)を主神として9神を祀っています。
 簡素なつくりの本殿は15世紀の建立と考えられ、県内最古の神社建築で、国の重要文化財に指定されています。飾りの少ない簡素なつくりですが、もとは朱塗りの彩色社殿だったそうです。
 現存する本殿は覆屋の中にあります。格子ごしにしか見ることはできません。三間社流見世棚造(さんげんしゃながれみせだなづくり)という建築様式です。桁行3間(2.88m)、梁間3間(2.95m)です。



黒髪神社
くろかみじんじゃ
佐賀県武雄市山内町大字宮野1038ー2
Tel 0954-45-2104


 黒髪神社は古くは黒髪三所大権現といい黒髪山頂の天童岩に上宮があり山麓に下宮があります。
 古代の磐座(いはくら)信仰・巨石崇拝が色濃く残っていて日本に於ける神祇崇敬の最も古い形式を伝えています。
 ご祭神はイザナギ、イザナミ、速玉男命などで、祖神様としての信仰が厚く、五穀豊穣・雨乞い・病気平癒・商売繁盛・交通安全・学業成就・諸災消除・諸願成就の神様として崇敬されています。
 黒髪神社は流鏑馬神事も有名で、毎年10月29日に開かれる流鏑馬は、現在まで800有余年続く伝統神事となっています。



常行寺
じょうこうじ
佐賀県伊万里市木須町4676
Tel 0955-22-3279


 常行寺は閻魔大王が有名なお寺です。高さはおよそ1.7mで木彫りでは日本一の高さを誇っています。脇侍の赤鬼、青鬼、司命、司録などの5つの像が並んでいます。格天井には極彩色の地獄絵図が残されています。
 鍋島直茂が朝鮮出兵の帰途、この常行寺に宿泊したそうです。それが縁で寺の紋章を鍋島家の杏葉紋と同じにしてもらったそうです。



伊万里津大橋
いまりつおおはし
佐賀県伊万里市二里町


 伊万里津大橋は、伊万里川河口、国道204号に架かる橋で昭和61年(1986)に完成しました。津とは港の意味です。伊万里津はかつて焼物の積み出しで栄えた港だったのです。
 橋の欄干に高さ1.5mの大壺が飾られています。川上側は「染錦四季草花文大壷」川下側が「染錦花見風俗絵大壷」です。古伊万里の大作を再現したレプリカです。



伊万里神社
いまりじんじゃ
佐賀県伊万里市立花町83
Tel 0955-23-2093


  伊万里神社は伊万里川沿いにあります。景行天皇2年(72)に「香橘(こうきつ)神社」として、現鎮座地に創祀され、昭和30年代に伊万里にある神社2つが合祀して伊万里神社となりました。
 主祭神は橘諸兄です。下記田道間守が非時香果(ときじくのかぐのみ=橘)を得て帰国の途次、伊万里津に寄港した際、この実を当地に植えたとされます。後世橘氏の子孫がこれを祖先の霊跡として、橘諸兄を祀って「橘の宮」と称したのが始まりと伝えられています。
 伊萬里神社の社殿は釘を一本も使わずに建てられている総木組建築の宮造りです。境内には「お菓子の神様」を祀っている「菓祖・中嶋神社」があり、伊万里出身の森永製菓創設者、森永太一郎氏の銅像もあります。
 毎年10月になると、日本3大喧嘩祭りの一つともされる伊萬里神社の「トンテントン祭」が境内で行なわれます。この祭りは伊万里くんちとも呼ばれます。「荒みこし」と「だんじり」がトンテントンと打ち鳴らす太鼓を合図に組み合い、相手を倒す祭りです。



円通寺
えんつうじ
佐賀県伊万里市松島町148
Tel 0955-22-2040


 城山公園の近くにある万明山円通寺は、九州四大名古刹の一つです。臨済宗南禅寺派の名刹で、全国に4か所しかない禅宗の専門道場の一つでもあります。
 明治37年(1904)、大和達磨寺より招いた六湛和尚の手により臨済宗の修行道場が開かれ、女人禁制の修法道場となりました。
 今から1400年前に松浦党伊万里氏6代の領主源貞公が、先祖や戦いで亡くなった人々を弔うために、武雄町広福禅寺の玄挙和尚に請うて開いたと伝えられています。



陶山神社
とうざんじんじゃ
佐賀県西松浦郡有田町大樽2ー5ー1
Tel 0955-42-3310


 陶山神社は万治元年(1658)に皿山代官の命で有田皿山の宗廟として創建されました。応神天皇を主祭神にして藩主鍋島直茂、有田焼の陶祖・李参平などを祀っています。
 神社の石段を上ると、白磁に淡いブルーの唐草文様が描かれた美しい磁器製鳥居が建っています。明治21年(1888)に陶工達が寄進したもので、有田のシンボルになっています。
 境内には有田焼の技術の粋を集めて焼成された磁器製の狛犬や、大水甕、灯篭などが奉納されています。



有田陶磁美術館
ありたとうじびじゅつかん
佐賀県西松浦郡有田町大樽1ー4ー2
Tel 0955-42-3372


 有田陶磁美術館は明治時代の焼物の倉庫だった石蔵を改造した美術館で昭和29年(1954)にオープンしました。
 2階建ての館内には17世紀初めの磁器の創始期の製品から20世紀に至るまでの有田焼の製品を中心に肥前の焼物が展示されています。17世紀前半の初期伊万里、それ以降の古伊万里、色鍋島、柿右衛門などを鑑賞できます。



龍澤寺
りゅうたくじ
佐賀県杵島郡江北町山口門前5162
Tel 0952-86-5615


 龍澤寺は扇山中腹にあるお寺です。室町時代初期の正平13年(1358)、真空禅師こと無著妙融和尚は諸国修行の折、現在の本堂より250m上の扇山山腹で座禅石を見つけ禅の修業をしたそうです。
 小城の西分館領主山口大炊守は深く師に帰依し25石の領地を与え、龍澤寺を創建させました。
 寛永8年(1631)、龍澤寺12世中興歓室大悦和尚の時、多久の家老が仏法に帰依し十六羅漢を寄進し、座禅石の周囲に安置したそうです。



土井家住宅
どいけじゅうたく
佐賀県杵島郡大町町大町1045
Tel 0952-82-3111


 土井家住宅は旧長崎街道に面した住宅で、以前は造り酒屋を営んでいたそうです。この民家の建築年代は、構造、手法、絵模様などから19世紀前半と推定されています。
 土間が広く、街道筋の町家でありながら農家風のところもあり、この地方の大型町家の一形態を示す価値のある住宅です。
 切妻造りで屋根は本瓦葺き、土間と部屋が左右に分けられ、家屋面積の半分が土間という珍しい造りです。国の重要文化財に指定されています。



武雄温泉新館
たけおおんせんしんかん
佐賀県武雄市武雄町大字武雄7425
Tel 0954-23-2001


 東京駅を設計した辰野金吾博士の設計で大正3年(1914)8月に建てられた武雄温泉新館と、大正4(1915)年4月に竣工した楼門は平成15年(2030)3月に復原されました。
 そして2つの建物は平成17年(2005)に国の重要文化財に指定されました。温泉の入口に立つ竜宮門形の朱塗りの楼門は、天平式楼門と呼ばれ釘を一本も使用していないそうです。
 楼門は、入母屋造本瓦葺の木造二重門で、左右に平屋の翼屋が張り出しています。扁額の「蓬莱泉」は明治期に書聖とうたわれた中林梧竹の筆です。 
 新館の一階は、玄関を入ると左右に男と女の大浴場があります。それを中心に上場湯各3つの部屋があります。二階には5つの和室があります。



肥前犬山城
ひぜんいぬやまじょう
佐賀県杵島(きしま)郡白石(しろいし)町大字堤3783


 肥前犬山城は標高342mの杵島山山頂の犬山岳の山頂に建っています。実在の城ではなくお城の形に擬した展望所です。ここから白石平野や有明海が一望のもとに見渡せます。
 肥前犬山城からは下に3つの小高い丘が見えます。中央に見えるのは「須古高城跡」です。戦国時代、この城は平井経治氏の居城でした。
 難攻不落で有名でしたが龍造寺隆信との4度の戦で、ついに敗れ滅亡しました。隆信も島原で島津・有馬の連合軍に敗れ、高城は、代々鍋島の須古藩が城主になりました。



水堂安福寺
みずどうあんぷくじ
佐賀県杵島郡白石町堤3144
Tel 0952-84-3033


 「水堂(みっと)さん」の名で知られる日輪山水堂安福寺は、白石町の杵島山中腹にあります。
 平安時代、高倉天皇が重い病気の時、夢のお告げに従ってここに霊水があることを知ったそうです。領主であった平重盛がこの水を献上すると、たちまち回復したそうです。
 それから毎年、旧暦4月15日から7月15日の間「出水(でみず)法要」の期間とされ、無病息災や家内安全などを願う大勢の参拝客が水を汲みに訪れるようになりました。



西岡家住宅
にしおかけじゅうたく
佐賀県嬉野市馬場下塩田


 西岡家住宅は船運で栄えた塩田津で代々石材業を営んでいた豪商西岡家の住宅です。昭和49年(1974)に国の重要文化財に指定されました。
 天正14年(1587)、西岡右左衛門がこの地に居を構え、現在の家屋は江戸時代末期の建築と推定されています。
 この塩田津一帯は塩田川の船運を利用した物資の集散地として栄えたところです。白壁作りの町家が数多く見られ、重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。



八天神社石造眼鏡橋
はってんじんじゃいしづくりめがねばし
佐賀県嬉野市塩田町大字谷所字山口


 八天神社は古くは八天狗神社と称し、火の神として肥前国一円に広く崇敬されていたそうです。
 八天神社の神橋であるこの石造眼鏡橋は嘉永5年(1852)に着工し2年後に完成したといわれています。全長11.14m、幅3.96m、高さ4.65m、欄干の高さ70cmのアーチ形の石橋です。
 中国文化の影響を物語る文化遺産として県の重要文化財に指定されていて、塩田石工の技術を今に伝えています。



祐徳稲荷神社
ゆうとくいなりじんじゃ
佐賀県鹿島市古枝乙1855
Tel 0954-62-2151


 「祐徳さん」と親しまれている祐徳稲荷神社は、伏見稲荷、笠間稲荷とともに日本三大稲荷の一つに数え上げられています。
 祐徳稲荷神社は、貞享4年(1687)、肥前鹿島3代藩主鍋島直朝(なおとも)公の夫人花山院萬子媛が、京都から輿入れする際に、京都御所内の花山院邸に鎮座する稲荷大神の分霊を勧請したのが始まりだといわれています。
 宝永2年(1705)、石壁山窟の寿蔵にて、萬子媛は断食して入定を果たしたそうです。以降、萬子媛の諡名から「祐徳院」と呼ばれるようになったそうです。
 衣食住の祖神と仰がれ、五穀豊穣、商売繁盛、家運繁栄、大漁満足、交通安全などの守護神として信仰があつく、参詣者は福岡の太宰府天満宮についで年間280万人に達するそうです。
 本殿などは、昭和初期に建て直されたものが昭和24年(1949)に焼失してしまいました。伊勢神宮造営局長の角南隆氏が設計して昭和32年(1957)に再建されました。主要建物は総漆塗りで、楼門、神楽門などは極彩色の華麗な造りです。



祐徳博物館
ゆうとくはくぶつかん
佐賀県鹿島市古枝乙1689 祐徳稲荷神社外苑
Tel 0954-62-2151


 祐徳稲荷神社の境内にある博物館で、昭和30年(1955)に開館しました。旧鹿児島藩主鍋島家累代の鎧や日本刀をはじめとする、祐徳稲荷神社所蔵の御宝物と、郷土を中心とした考古、歴史、美術工芸、民族などの資料を所蔵、展示しています。
 江戸時代から伝承されてきた「鹿島錦」の新作発表会「鹿島錦展」なども開かれ、全国の美術品なども紹介しています。


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