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日本の旅
日本の旅      大分

中津城
なかつじょう
大分県中津市二ノ丁本丸
Tel 0979-22-3651


 中津城は天正16年(1588)、黒田孝高(如水)によって築城着手されました。堀には海水が引き込まれているため、水城とされ、今治城、高松城とともに日本三大水城の一つに数え上げられています。
 慶長5年(1600)、黒田孝高は関ヶ原の戦いの戦功により筑前52万石に移封、細川忠興が豊前国と豊後国2郡39万石で入封し、城の大修築を開始しました。
 慶長7年(1602)、忠興は本拠を小倉に移し小倉城築城に着手、嫡男の忠利に家督を継がせて治めさせました。元和7年(1621)隠居の場所とした中津城を扇形の縄張りに拡張し、中津城を完成させました。
 寛永9年(1632) 細川家は熊本に転封し、小笠原長次が8万石で入封し中津藩ができました。以後、中津城は中津藩の政庁となり藩主の居城となりました。享保2年(1717)奥平昌成が10万石で入封し、明治維新まで奥平家の居城となりました。
 昭和39年(1964)、奥平昌信らが小倉城復興天守や名古屋城外観復元天守を手掛けた東京工業大学の藤岡通夫博士に依頼して萩城天守に似た鉄筋コンクリートの模擬天守を建造しました。現在は奥平家子孫によって中津城が売りに出される事態になっています。



合元寺(赤壁寺)
ごうがんじ(あかかべでら)
大分県中津市寺町973
Tel 0979-22-2037


 合元寺は天正15年(1587)に黒田孝高(如水)によって建立された西山浄土宗のお寺です。合元寺の壁は紅色に塗られていることから赤壁寺とも呼ばれています。
 黒田孝高は豊前の有力者で城井城主であった宇都宮鎮房を中津城中で謀殺しました。その時、家臣たちはこの寺に籠って奮戦し全員討ち死にしたそうです。この時、門前の白壁は血に染まり、以後いくら塗りかえても血が浮き出てくるため、ついに赤壁に塗りかえたそうです。



福沢諭吉旧宅
ふくざわゆきちきゅうたく
大分県中津市留守居町586
Tel 0979-25-0063


 中津藩の大坂屋敷で生まれた福沢諭吉は父の死亡で中津に帰り、長崎に遊学する21歳までこの粗末な下級武士の家に住みました。
 寄棟造り、わら葺きの母屋と諭吉が自ら土を練って修理したという土蔵が当時のまま保存されています。土蔵の2階で勉強したそうです。
 隣接して福沢諭吉記念館があります。諭吉の使った日用品、遺墨、著書「学問のすすめ」の原本などが陳列しています。



薦神社(大貞八幡宮)
こもじんじゃ(おおさだはちまんぐう)
大分県中津市大貞209
Tel 0979-32-2440


 薦神社(こもじんじゃ)は、別名大貞八幡と呼ばれ、宇佐神宮の元宮とも伝えられています。境内の広大な霊池である三角池(みすみいけ)を内宮とし、社殿が外宮となっています。
 社殿は、三角池の東に位置していて、本殿、申殿、拝殿が南北に並んでいます。周囲は築地塀で囲まれていて、東側に神門が開いています。
 薦神社の神門は三軒一戸の二重門で、初重の前後にもこしをつけています。屋根は入母屋造り、こけら葺で、もこし前面は唐破風となっています。江戸時代初期の大変珍しい形式の二重門で国の重要文化財に指定されています。



豊前善光寺
ぶぜんぜんこうじ
大分県宇佐市下時枝237
Tel 0978-32-7676


 豊前善光寺は正式には梵天山法性院善光寺という浄土宗のお寺です。長野市の善光寺と区別するため豊前をつけたり、芝原善光寺とも呼ばれています。
 天徳2年(958)、空也によって創建されたと伝えられ、寺伝では建長2年(1250)に大修理を行ない、文禄、元禄に修理の手を加えたそうです。
 本堂は鎌倉時代の様式で桁行7間、梁間5間妻入りで、屋根は単層寄棟造本瓦葺き、唐破風の向拝を持っています。国の重要文化財に指定されています。



宇佐神宮
うさじんぐう
大分県宇佐市南宇佐2859
Tel 0978-37-0001


 宇佐神宮は1400年前に創建された、全国に4万を超える八幡宮の総本社で宇佐八幡宮ともよばれています。伊勢皇大神宮に次ぐわが国第2の宗廟です。
 欽明天皇32年(571)、八幡神が当地に降臨し、神亀2年(725)、聖武天皇の勅願により社殿が建立されたといわれています。
 神亀2年、小山田社にあった社殿が現在の亀山に移され第一之殿が造立されました。天平元年(729)には第二之殿、弘仁14年(823)には第三之殿が造立され、現在の形式の本殿が完成したようです。
 鎌倉中期には蒙古の撃退祈願が行なわれ社運は隆盛しました。足利時代は幕府の命を受けた周防の太守、大内盛見(もりはる)が社殿を修営して社観を整えました。
 天正10年(1582)大友宗麟の兵火にあい焼失、天正15年(1587)には豊臣秀吉に社領すべてを没収され衰えましたが、小倉城主であった細川忠興が慶長から寛永4年にかけて再興させました。
 本殿は3殿からなっています。本殿は江戸後期に造られた檜皮葺きの「八幡造り」で、白壁に朱塗りの柱も美しく、国宝に指定されています。
 向かって左の第一之御殿には、主祭神である八幡神・応神天皇を祀っています。中央ある第二之御殿は当地の土豪で国造に任ぜられた宇佐氏の氏神、比売大神(ひめおおかみ)を祀っています。右側にある第三之御殿には応神天皇の母・神功皇后を祀っています。
 境内には仁徳天皇以下五柱の通称「若宮五神」を祭る若宮神社、応神天皇の子神を祭る春宮神社、大山積尊を祭る亀山神社(亀山は当宮が位置する山の名前)などの末社が建てられています。
 また境内の菱形池を守る水分(みくまり)神社、菅原道真を祭る天満神社、素戔嗚尊を祭る八坂神社、武内宿禰を祭る黒男神社、和気清麻呂を祭る護皇神社、などの末社もあります。



十宝山大乗院
じゅっぽうさんだいじょういん
大分県宇佐市大字四日市
Tel 0978-32-5290


  鬼のミイラが安置されている十宝山大乗院です。座高は1.4mの大きなミイラは、
全身が完全な形で残っています。檀家さんが緑有って購入したのですが、突然原因不明の病になり、寺に納めたと伝えられています。



大分県立歴史博物館
おおいたけんりつれきしはくぶつかん
大分県宇佐市大字高森字京塚
Tel 0978-37-2100


 平成10年(1981)、史跡公園「宇佐風土記の丘」にオープンしました。前身は昭和56年(1981)に開設された県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館です。
 富貴寺大堂や臼杵石仏など大分県内の国宝を実物大で復元した展示や、「豊の国・おおいたの歴史と文化」をテーマにした常設展示をしています。
 大分県立歴史博物館がある宇佐風土記の丘は、九州有数の大規模な古墳群である川部・高森古墳群内に位置しています。



岩戸寺
いわとじ
大分県国東市国東町岩戸寺1232
Tel 0978-77-0537


 石立山(いしだてさん)岩戸寺は国東半島の北東部にある天台宗のお寺です。養老2年(718)に仁聞の開基と伝えられている古刹です。
 岩戸寺は六郷満山の末山本寺でした。桜並木の参道の奥に本堂、講堂、鐘堂があります。本堂の西側から奥之院へ登る参道の途中に岩戸寺石塔があります。
 岩戸寺石塔は岩戸寺国東塔とも呼ばれています。弘安6年(1283)納経のために造立したという銘文が刻まれています。国東塔の中では大分県最古の物で国の重要文化財に指定されています。
岩戸寺石塔



文殊仙寺
もんじゅせんじ
大分県国東市国東町大恩寺2432
Tel 0978-74-1400


 峨眉山(がびさん)文殊仙寺(もんじゅせんじ)は、天台宗のお寺です。国東半島のほぼ中央に位置する文殊山(617m)の東北側の中腹にあります。
 伊勢の朝熊(あさま)、丹後宮津の智恩寺とともに日本三文殊のひとつに数え上げられ、三人寄れば文殊の知恵の発祥の地とされています。
 大化4年(648)に、中国の五台山から迎えた文殊菩薩を本尊とし、役小角(えんのおずぬ)により創建されたといわれています。平安から鎌倉時代には六郷満山の末山本寺として栄えたそうです。江戸時代には杵築藩主松平公の祈願所でもありました。
 参道の入口の仁王像を通り、長い石段を登ると山門、客殿(不動堂)、鐘楼や、日本一大きいとされる高さ約9mの宝篋印塔があります。奥には本尊の文殊菩薩が安置されている本殿奥の院文殊堂があります。



両子寺
ふたごじ
大分県国東市安岐町両子1548
Tel 0978-65-0253


 足曳山両子寺(ふたごじ)は、両子山中腹にある天台宗のお寺です。養老2年(718)に仁聞(にんもん)の開基と伝えられる六郷満山の中山(なかやま)本寺で、修行の中心地として隆盛を極めました。
 六郷満山は宇佐の八幡神信仰と天台宗修験道が結びつき、複雑な宗教体系のもとに発達したお寺の集団です。学問場の本山(もとやま)、修練場の中山、布教場の末山(すえやま)に分けた独特の組織で平安時代末期に全盛を極めました。
 境内は広く全域が県指定の史跡にされています。護摩堂、書院、稲荷堂、大講堂、奥之院などの建物や国東塔、百体観音、仁王像などが配されています。
 護摩堂は、山岳修行の根本道場です。本尊不動尊をはじめ観音菩薩、阿弥陀如来、毘沙門天、歓喜天などが祀られています。明治2年(1869)に焼失後、明治25年(1892)、焼失前の堂宇と同じように再建されています。



泉福寺
せんぷくじ
大分県東国東市国東町横手馬場1913
Tel 0928-2-2035


 妙徳山(みょうとくさん)泉福寺(せんぷくじ)は曹洞宗のお寺です。長年全国こども相談室を担当した無着成恭さんが住職を務めています。
 永和元年(1375)、大友氏の一族の田原氏能が、母の発願によって無著妙融(むちゃくみょうゆう)禅師を開山として創建したと伝えられています。
 天正9年(1581)、キリシタン大名である大友宗麟による焼き討ちに遭い、開山堂、仏殿(大雄殿)以外は焼失したそうです。その後、慶長10年(1605)に当時中津藩主であった細川忠興によって再興され、江戸時代には九州曹洞宗の総本山として栄えました。
 泉福寺開山堂は応永年間(1394-1427)に開祖無著禅師の墓の覆屋と礼堂を兼ねて造られたもので、墓と木像が安置されています。現存する建物は寛永13年(1636)に古材を用いて再建されたもので国の重要文化財に指定されています。
泉福寺開山堂
 泉福寺仏殿は大永4年(1524)に建立されました。九州では希な室町時代後期の禅宗様仏殿です。大雄殿とも呼ばれ国の重要文化財に指定されています。
泉福寺仏殿



川中不動
かわなかふどう
大分県豊後高田市長岩屋
Tel 0978-27-3049


 修正鬼会で有名な天念寺の前に天念寺川が流れています。この川の中に巨岩があり、不動三尊が刻まれています。
 高さ3.23mの不動明王像、高さ2.05mの矜羯羅(こんがら)童子、高さ1.73mの制多迦(せいたか)童子像です。天念寺の水害除けに刻まれた室町時代の作と推定されています。



天念寺
ていねいじ
大分県豊後高田市大字長岩屋
Tel 0978-27-3842


 長岩屋山天念寺(てんねんじ)は、天台宗のお寺です。天念寺川の源流部に近い山間にあります。六郷満山中山本寺十か寺の一つです。
 天念寺耶麻とも呼ばれる奇岩を背にして本堂、庫裏、講堂、六所権現社などが建っています。本堂には木彫仏5体があります。県の有形文化財に指定されています。
 六郷満山の開基と伝えられる仁聞が、国家安穏・五穀豊穣・無病息災等の諸願をかけて大法要を行った修正鬼会が続けられています。以前は六郷満山六十五ヶ寺で実施されていましたが、現在は天念寺と国東町の岩戸寺と成仏寺の3ヶ所のみ伝統を引き継いでいます。これは国の重要無形文化財に指定されています。
 六郷満山は宇佐の八幡神信仰と天台宗修験道が結びつき、複雑な宗教体系のもとに発達したお寺の集団です。学問場の本山(もとやま)、修練場の中山、布教場の末山(すえやま)に分けた独特の組織で平安時代末期に全盛を極めました。



鬼会の里歴史資料館
おにえのさとれきししりょうかん
大分県豊後高田市大字長岩屋


 天念寺耶馬の直下にある鬼会の里歴史資料館は長岩屋の伝統文化の伝習施設です。ここは長岩屋地区住民で構成している天念寺周辺整備開発委員会によって運営されているそうです。
 天念寺周辺の環境整備の促進と修正鬼会(しゅじゅうおにえ)の保存と継承、都市交流を目的にしています。国指定重要文化財の木造阿弥陀如来立像や勢至菩薩、千手観音が展示され、修正鬼会の資料や鬼会のビデオなども観ることができます。
 国東半島の六郷満山に伝わる伝統行事「修正鬼会」は江戸時代までは国東半島の天台宗の各寺で行なわれていました。今では、この天念寺(豊後高田市)と成仏寺(国東市)、岩戸寺(国東市)の3ヶ所で行なわれています。西満山に属している天念寺では毎年行われ、東満山の成仏寺と岩戸寺では隔年交代で行なわれます。五穀豊穣 国家安泰、無病息災、万民快楽を祈願する火祭りの行事で、旧正月に行なわれます。



富貴寺
ふきじ
大分県豊後高田市田染真木2395
Tel 0978-26-3189


 蓮華山富貴寺(ふきじ)は天台宗のお寺で養老2年(718)仁聞(にんもん)の開基と伝えられています。阿弥陀堂でもある国宝の富貴寺大堂(おおどう)は、中尊寺金色堂、平等院鳳凰堂と並ぶ日本三大阿弥陀堂に数え上げられています。
 富貴寺大堂はカヤの木の素木造りで、屋根は宝形造(ほうぎょうづくり)です。瓦の葺き方は、上方がすぼまり、下方が開いた特殊な形の瓦を次々に差し込んでいくもので「行基葺き」と呼ばれる特殊なやり方です。
 正面桁行3間、梁間4間で、正面幅よりも奥行が長く、堂内は中の間の方1間を内陣として、その4隅に円柱を建て、本尊の木造阿弥陀如来座像を安置しています。この本尊も阿弥陀堂と同じ時期に造られたとみられ、国の重要文化財に指定されています。
 小さな堂で、扉など、後世の修理で取りかえられていますが、九州最古の平安木造建造物であり、六郷山の寺院群の最盛期をしのばせる数少ない遺物です。



真木大堂
まきおおどう
大分県豊後高田市田染真木1796
Tel 0978-26-2075


 奈良時代末から鎌倉時代にかけて国東半島には「六郷満山」とよばれた65ものお寺がありました。真木大堂は本山本寺の一つとして最大寺院だった伝乗寺の遺跡なのです。
 現存する9体の仏像は七堂伽藍を誇ったかつての栄華を偲ばせるものです。藤原仏傑作で国の重要文化財に指定されています。本尊の木造阿弥陀如来座像は寄木造で2.17mの巨像です。白牛に乗り火焔光背を背負った大威徳明王像は大威徳明王像としてはわが国最大の1.29mです。
 この大堂に隣接して古代文化公園があります。国東塔、五輪塔、など170点余りの石造遺物が集められています。



元宮磨崖仏
もとみやまがいぶつ
大分県豊後高田市大字真中


 元宮磨崖仏は、室町時代の磨崖仏です。熊野磨崖仏、鍋山磨崖仏とともに「熊野磨崖仏附元宮磨崖仏及び鍋山磨崖仏」として国の史跡に指定されています。
 2.03mの不動明王を中心に、右に1.2mの矜羯羅(こんから)童子、2.2mの毘沙門天、左に1.88mの持国天、1.22mの地蔵菩薩の5体の尊像が半肉彫りで刻まれています。



熊野磨崖仏
くまのまがいぶつ
大分県豊後高田市田染平野2544
Tel 0978-26-2070


 熊野磨崖仏は今熊野山胎蔵寺(いまくまのさんたいぞうじ)から鬱蒼と生い茂る杉木立の急な石段を300mほど登っていくと左手に現れます。
 この石段は鬼が一夜にして積み上げたという伝説が残っています。磨崖仏は2体刻まれています。高さ8mの不動明王と6.88mの大日如来です。ともに国の史跡と国の重要文化財に指定されています。。
 この磨崖仏はわが国でも屈指の大きさを持っています。2体とも上半身だけ刻まれ、不動明王は微笑をたたえています。大日如来の頭上には種子曼荼羅が彫られています。平安時代末期の造像と推定させています。



杵築城跡
きつきじょうせき
大分県杵築市杵築16ー1
Tel 0978-62-4532


 豊後の大友氏の2代目である親秀の6男親重は建長2年(1250)、鎌倉幕府から豊後国速見郡武者所として、八坂郷木付荘に封ぜられました。そして、地名の木付を氏とし名乗り、竹ノ尾の高台に城を築きました。
 木付氏4代頼直は海と断崖に囲まれた要害堅固な地に城を移築し、応永元年(1394)に完成させ、木付城と命名しました。これが杵築城のはじまりです。
 戦国時代には大友氏と島津氏の戦いの舞台となりました。天正14年(1586)、豊臣秀吉の九州征伐を前に、薩摩の島津義弘は九州を支配しようと3万の軍勢を率いて豊後の大友宗麟を攻めました。
 豊後の諸城は次々と落とされ木付城に迫りました。城を守る木付鎮直は島津側の新納(にいろ)武蔵守勢の猛攻を受けましたが、籠城して奮戦し、天正15年(1587)には島津勢を撃退しました。
 この戦いで杵築城は難攻不落の城として名を高め、「勝山城」とも呼ばれるようになったそうです。
 文禄2年(1593)、大友宗麟の後を継いだ大友義統(よしむね)が文禄の役で、敵の大軍を恐れて前線より逃走したことから改易されてしまいました。
 木付鎮直の子統直(むねなお)は帰国の途中、門司の浦で宗家大友氏滅亡の悲劇を嘆いて自刃してしまいました。この悲報は直ちに木付城にいた父鎮直に伝えられ、鎮直夫妻は城内で自害、ここに木付氏17代、340年余の歴史が終わったのです。
 慶長5年(1600)、関ケ原の合戦の軍功により細川忠興が豊後中津城主となると、木付城には家老の松井興長が城代となりました。
 その後、正保2年(1645)、城主となった松平英親は城の平地移転を完成させました。正徳2年(1712)、3代藩主松平重休の時、徳川6代将軍家宣の朱印状に木付の文字が杵築と書き違えられていたため、松平重休は幕府に伺いをたてた後、木付を杵築と改め現在に至っているそうです。
 現在は本丸、二の丸、三の丸の石垣や濠の一部が残り、山上の天守台跡に博物館と展望台を兼ねた模擬天守が昭和45年(1970)に建てられています。



別府温泉
べっぷおんせん
大分県別府市


 別府温泉は別府市内の温泉の総称になっています。特に別府、浜脇、観海寺、堀田、亀川、柴石(しばせき)、鉄輪(かんなわ)、明礬(みょうばん)を別府八湯と呼んでいます。
 豊後国風土記や伊予国風土記にも別府の湯に関する記述がみえ、古くから広く知られた温泉です。
 泉源数は約2700所で海や渓谷、丘陵などといたるところに湧きだしています。湧出量は1分間に9万リットルと日本一を誇っています。
 別府地獄めぐりなど観光スポットも充実し、毎年1000万人を超える観光客が訪れています。



別府タワー
べっぷたわー
大分県別府市北浜3ー10ー2
Tel 0977-21-3944


 別府タワーは別府駅東方、北浜の海岸近くに建っています。高さ100mのテレビ塔です。鉄骨鉄筋コンクリートの建物の上に塔を組んだ構造で、秒速160mの台風にも耐えられる構造になっているそうです。
 名古屋テレビ塔、通天閣に次ぎ、日本で3番目に建てられた高層タワーで、別府観光のシンボルとして親しまれています。別府観光開発株式会社により運営されています。
 平成19年(2007)、建造から50年を経過したことを期に、国の登録有形文化財への登録が申請され、同年10月に登録されました。



ノーマン・ロックウェル湯布院美術館
のーまん・ろっくうぇるゆふいんびじゅつかん
大分県由布市湯布院町川上2967ー13
Tel 0977-84-5455


 ノーマン・ロックウェル湯布院美術館は米誌「サタデー・イブニング・ポスト」の表紙を47年描き続けたノーマン・ロックウェルの作品を集めた美術館です。



由布院美術館
ユフインビジュツカン
大分県由布市湯布院町川上岩室2995
Tel 0977-85-3525


 昭和35年(1960)、湯布院で42歳の生涯を閉じた放浪の詩人画家・佐藤渓(けい)の作品と万華鏡を常設展示しています。
 佐藤渓は日本全国を放浪して詩と絵をつくり続けました。一風変わった展示ルームが中庭を囲むように配されています。



湯布院トリックアート迷宮館
ゆふいんとりっくあーとめいきゅうかん
大分県由布市湯布院町川上3001ー8
Tel 0977-84-5058


 湯布院トリックアート迷宮館には綺麗な絵画や彫刻が展示されています。立派な彫刻や、階段は絵で、壁一面に描かれています。うっかりするとぶつかってしまいます。重厚そうな額縁も絵で、中の絵が額縁を通り抜けるので立体的に見えるのです。
 絵にはそれぞれ、見方や立体的にとれる写真などの説明がしてあります。遠近法を使って三次元的に描いています。絵に隠されたトリックは写真を撮って体感することもできます。



宇奈岐日女神社
うなぎひめじんじゃ
大分県由布市湯布院町川上2220
Tel 0977-84-3200


 宇奈岐日女(うなぎひめ)神社は由布岳の神とされ、祭神に国常立尊、国狭槌尊、彦火火出見尊など6つの神を祀っているため六所宮(ろくしょぐう)とも呼ばれています。
 神社の名称となっている宇奈岐日女は鰻の化身とも言われ、祭神の中には入っていません。伝説によると美しい女神で力自慢の醜巨神、道巨命(みちのおみのみこと)に命じて湯布院の地を開拓したとされています。
 社伝によれば、創祀は景行天皇12年(紀元82年)とされていますが明らかではありません。続日本後紀に豊後国宇奈岐日女神社に嘉祥2年(849)に神階従五位下を授けるとの記述があることから社歴は古いことがわかります。
 明治維新まではまでは別当を務めた臨済宗の佛山寺と習合していましたが、神仏分離により現在の姿となりました。明治6年(1873)郷社、大正12年(1923)、県社に列せられました。
 境内は1万坪を超え、境内は樹齢300年を超える杉の老木で覆われています。流造りで朱塗りの社殿と神門が荘厳な雰囲気を出しています。



旧日野医院
きゅうひのいいん
大分県由布市湯布院町川西467ー4
Tel 0977-84-2324


 旧日野医院は明治27年(1894)、日野医院3代目の日野要(ひのかなめ)氏によって建てられました。
 擬洋風の本館と和風病棟からなる貴重な建物で、平成11年(1999)12月に本館、病棟、離れが国の重要文化財に指定されました。
 本館は土蔵造りの木造2階建の擬洋風建物で背面一間半を片流れの下屋造りにしています。
 病棟も木造2階建一部平屋建で土塗り真壁造りの和風建物です。また離れは木造平屋建で土塗り真壁造りの和風建物です。



大友宗麟像
おおともそうりんぞう
大分県大分市要町、大分駅前


 大分駅前の広場には富永直樹氏作製の大友宗麟(おおともそうりん)の像があります。昭和57年(1982)に建てられました。
 大友宗麟こと大友義鎮(よししげ)は大友家の第21代当主です。父の義鑑(よしあき)の後を継いで豊後守護となりました。九州北部の6か国を支配した戦国大名でキリシタンでした。



遊歩公園
ゆうほこうえん
大分県大分市府内町3丁目


 遊歩公園は、大分市の府内城の南側、県庁前の大手通りにあります。第二次大戦後、大分市の戦災復興計画の一環として造成された公園です。遊歩道に沿って、朝倉文夫や北村西望らによる十数体の彫刻、記念碑が建っています。
 天文20年(1551)に府内を訪れてキリスト教の布教を行ったフランシスコ・ザビエルの彫像。弘治3年(1557)聖歌隊が賛美歌を合唱、外国人神父からビオラを学んだ少年達が大友宗麟の前で演奏したという西洋音楽発祥記念像などものもあります。
 朝倉文夫が昭和25年(1950)に作製した大分県出身の作曲家瀧廉太郎の像もあります。朝倉氏は竹田高等小学校での廉太郎の3年後輩で、像の下には廉太郎との関わりを記した朝倉氏自筆の文も刻まれています。遊歩公園は瀧廉太郎の終焉の地でもありました。



府内城跡(大分城址公園)
ふないじょうせき(おおいたじょうしこうえん)
大分県大分市荷揚町4地内
Tel 097-537-5626


 府内城は慶長2年(1597)、石田三成の妹婿である福原直高が築いた荷揚城が始まりです。その後、竹中重利が未完成だった城内に4層の天守閣や楼閣などを建築し、名を府内城と改めました。
 府内とは大分の別称で、古代この地に豊後国府が置かれていたことに由来しています。鎌倉時代から戦国時代にかけては豊後国の守護職・守護大名であった大友氏の拠点になりました。
 慶長6年(1601) 、関ヶ原の戦いの後、竹中重利が3万5千石で入城しました。城の大改修を行ない、慶長7年(1602)には4層天守、櫓、山里曲輪、内堀を完成させ、慶長10年(1605)には外堀を完成させました。
 竹中重利は豊臣秀吉の軍師、竹中半兵衛の子です。その後、重利の嗣子2代重義(しげよし)は長崎奉行職なども兼任しましたが残虐非道なキリシタン弾圧で知られています。寛永11年(1634)不正発覚で江戸で切腹させられ、竹中家は断絶しました。
 その後、日根野吉明(ひねのよしあきら)が城主となりましたが、跡継ぎがなく、断絶しました。そして、しばらくのあいだ城番が置かれました。寛保3年(1743)大火により天守を含む大部分の建造物が焼失し、その後、天守は再建されませんでした。
 万治元年(1658)に大給(おぎゅう)松平家の分家の5代目の松平忠昭(ただあき)が入封しました。2万2千石の大名として明治まで松平家が続きました。明治初期に本丸、東丸、西丸の建造物以外は破却され、堀の一部は埋め立てられてしまいました。
 太平洋戦争の際、空襲により櫓が数棟焼失しました。
 府内城は海に接する城で、内堀と海とを分断する「帯曲輪(おびくるわ)」が今でも鮮やかに残っています。濠や石垣は残り、城跡は公園になっています。櫓や城門、廊下橋などが復元されています。



大分県立芸術会館
おおいたけんりつげいじゅつかいかん
大分県大分市牧緑町1ー61
Tel 097-552-0077


 大分県立芸術会館は、美術館と多目的ホール(県民文化会館)とからなる県運営の複合文化施設です。
 開館は昭和52年(1977)9月です。当時大分市内で唯一の本格的な美術館でした。田能村竹田、福田平八郎、高山辰雄、宇治山哲平、朝倉文夫など大分県に関係する人の作品を収蔵、展示しています。



大分市美術館
おおいたしびじゅつかん
大分県大分市上野865
Tel 097-554-5800


 大分市美術館は大分市市街地の南側にある上野の森の丘陵地に平成11年(1999)に開館しました。
 国の重要文化財を含む田能村竹田を中心とする豊後南画や、山辰雄、福田平八郎の日本画、洋画の佐藤敬、竹工芸の生野祥雲斎、現代美術の風倉匠など大分県、大分市にゆかりのある美術家の作品を中心に収蔵、常設展示しています。
 屋外には原口典之、青木野枝、剣持和夫といった現代彫刻などを設置し、公園の中で散策できるように考えてあります。



大分県キリシタン殉教記念公園
おおいたけんきりしたんじゅんきょうこうえん
大分県大分市葛木


 大分県キリシタン殉教記念公園は昭和35年(1960)、キリスト教徒であった当時の大分市長上田保が中心となり、九重町の篤志家の寄付によって造られました。
 慶長17年(1612)に幕府直轄領にキリシタン禁教令が出され、翌年に全国に拡大されました。安土桃山時代、領主であった大友義鎮(宗麟)らのキリスト教への改宗により大分はキリシタンの中心地でひとつで最盛期には1万人を超えるキリシタンがいたそうです。ここでも厳しい取締りが行なわれました。
 キリシタン殉教記念公園がある葛木は獄門原と呼ばれ、約200人の最も多くの殉教者を出したとこです。公園内には、北村西望によるキリシタン殉教の地の碑が建てられています。



臼杵石仏
うすきせきぶつ
大分県臼杵市深田、前田、中尾
Tel 0972-65-3300


 臼杵石仏は臼杵市深田、前田、中尾の丘陵の山裾の谷間の露出した凝灰岩に刻まれた磨崖仏群です。奈良時代の敏達天皇の時に「真名野長者」と呼ばれた者が子の死を悼み中国より蓮城法師を呼んで磨崖仏を刻んでもらったという伝説があります。
 実際には平安時代後期から鎌倉時代にかけて刻まれたと推定されています。ホキ石仏群(ホキ石仏第2群)、堂ヶ迫石仏群(ホキ石仏第1群)、山王山石仏、古園石仏の4つに大別されていて、59体の石仏が国宝に指定されています。
 ホキ石仏群は2ヶ所あり、右側の石仏群は9体の阿弥陀を中心に観音、勢至菩薩、天部2体の13体が刻まれています。小像でかなり傷んでいます。
ホキ石仏群
 左側は阿弥陀3尊像で臼杵石仏の中でも傑作といわれています。中尊の高さは2.85m、丸彫りに近い巨体は量感に富んでいます。
ホキ石仏群
 堂ヶ迫石仏群はホキ石仏群の南側にあります。4つの石仏群があります。高さ1.2mの地蔵半跏像を中尊とした地蔵十王像です。隣には大日如来を中心に右に観音、釈迦、左には弥陀、勢至が彫られています。
堂ヶ迫石仏群
 別のところには阿弥陀如来を中尊として左右に薬師、愛染明王、釈迦が彫られています。その隣には釈迦如来群があります。
堂ヶ迫石仏群
 山王山石仏はホキ石仏群、堂ヶ迫石仏群からは谷を隔てたところにあります。
山王山石仏
 通称「かくれ地蔵」と呼ばれる3体の如来像で、中尊の如来は高さ2,6m、豊満な体で童顔です。
山王山石仏
 古園石仏は山王山石仏から山裾に下り、丘に沿ったところにあります。崖を深くえぐって彫られています。
古園石仏
 中尊の大日如来像は豊かな頬と半月の眉、半眼を閉じた目、小さな唇でわが国の石仏中でも最高傑作といわれています。
古園石仏



ヤマコ臼杵美術博物館
やまこうすきびじゅつはくぶつかん
大分県臼杵市深田793
Tel 0972-65-3080


 臼杵石仏の隣にあるヤマコ臼杵美術博物館は旧臼杵藩主稲葉家に伝わる漆工芸品を中心に展示しています。
 中津藩から臼杵の稲葉藩にお嫁入りしたお姫さまの婚礼道具である化粧箱や香道具、貝あわせなど目を見張るものがあります。2階は臼杵石仏周辺で発掘された中世の遺物を展示しています。


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