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沖縄
おきなわ
 沖縄には日本本土と地理的に遠いこともあり独自の歴史や文化があります。中世には平和を謳歌した黄金時代・沖縄世(うちなーゆー)もありました。
 長い薩摩藩支配の時代・日本世(やまとゆー)、第二次世界大戦での沖縄での悲惨な時、その後27年間をアメリカに支配された時代・アメリカ世(ゆー)、まさに苦難に満ちた長い年月でした。
 昭和47年(1972)、日本本土復帰は実現しましたが未だにアメリカ軍の戦闘機の爆音が轟いています。辺戸岬の祖国復帰闘争碑を見たとき目の先の与論島に向けて本土復帰を叫んだ心を忘れてはいけないと思いました。
 紀元前7世紀頃から紀元10世紀頃まで沖縄の貝塚時代に入ります。九州から沖縄に入植してきた人々が縄文文化を広げたようです。
那覇空港
 12世紀頃からグスク時代に移ります。海岸砂丘から丘陵地に移動し鉄を利用した農業、牧畜が行なわれ、集団を作って共同体を形成しました。
 共同体の勝利者であった本島の按司(あじ)はグスクとよばれる館を構え、抗争を繰り返しました。14世紀頃「中山」「北山」「南山」という小国家ができました。3国は中国に入貢し冊封体制の一員になっています。
 応永23年(1416)中山の尚巴志(しょう・はし)は北山を滅ぼし、永亨元年(1429)には南山も滅ぼして琉球王国を樹立しました。その後その王国は滅びましたが同じ尚なので第二尚氏王朝と呼ばれています。
モノレール
 第二尚氏王は対外貿易で繁栄しました。鎖国中の明は冊封体制の一員の琉球と貿易ができたのです。特に3代尚真(しょう・しん)の時代には未曾有の繁栄を築きました。
 尚真によって首里城、円覚寺、玉陵(たまうどうん)など戦前の21の国宝が造られたのです。中国、朝鮮、日本、東南アジアの文化を貿易と並行して摂取し独自な文化を作り上げたのです。
 江戸時代、琉球王国は薩摩の支配を受けながら冊封使も迎えました。歓迎する宴が催され音楽や踊りが重用されました。右は中国の紅型衣装に花笠をかぶり、四つ竹という小さな打楽器を打鳴らしながらしなやかに舞う踊りです。



首里城
しゅりじょう
沖縄県那覇市首里当蔵町3ー1
Tel 098-886-2020


 首里城は小高い丘の上に立地し、曲線を描く城壁で取り囲まれ、その中に多くの施設が建てられています。15世紀にできた内郭(内側城郭)と16世紀にできた外郭(外側城郭)に大きく分けられています。
 首里城の起源ははっきりしませんが、察度王統の時代に首都となったとも、第一尚氏王統の尚巴志(しょう・はし)が中山王武寧(察度の子)を滅ぼし、中山の拠点を浦添城から首里城へ移したともいわれます。
 尚巴志が琉球を統一した頃の応永9年(1427)の建立の碑文に記されているので、それ以前にすでに王宮としての形を整えていたようです。首里城はこれから後450年近く、王国の政治、外交、文化の中心地となりました。
 その後何代にもわたって大改修が行われ、第二尚氏王統2代の尚真王(しょう・しん)の頃には首里城がほぼ完成したといわれています。

 首里城にはいくつもの広場があり、聖地も存在しています。これらは、他のグスクと呼ばれる沖縄の城に共通する特徴であったようです。今では首里城のみがグスクの特徴を残しています。
 7代尚寧王の代の慶長14年(1609)薩摩の島津氏の侵攻を受け、島津氏に従属することを余儀なくされ、明治5年(1872)には日本領であることを明確にするため、明治政府によって19代尚泰(しょう・たい)琉球王は琉球藩主とされました。明治12年(1879)には琉球藩も廃されて沖縄県となり王政は終結しました。
 首里城は幕末の弘化3年(1846)に改築されて以来、修理されることなく大正時代に至り、腐朽荒廃がひどいため当時の首里市が財政難から取り壊しを決定しました。
 大正12年(1923)、伊藤忠太博士の尽力により解体を免れ、特別保護建造物に指定され改築されました。以後沖縄神社の拝殿として使用されました。昭和4年(1929)には国宝に指定されたのでした。
 城の地下に日本軍(第32軍)の指令部壕が掘られていました。そのため昭和20年(1945)の沖縄戦でアメリカ軍の猛烈な砲撃を受け炎上、地上からその姿を消したのでした。
 戦後、沖縄を直接統治したアメリカは、昭和25年(1950)に首里城跡に琉球大学を創立しました。守礼門などはいち早く復旧されましたが首里城跡は昭和57年(1982)大学が移転するまで手が付けられませんでした。
 平成4年(1992)、本土復帰20周年を期に、明和5年(1768)の工事記録として残る資料を参考にして現在の首里城がよみがえったのです。
 平成12年(2000)には、首里城跡として他のグスクなどとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産に登録されました。
 首里城は国王とその家族が居住する「王宮」であると同時に、王国統治の行政機関「首里王府」の本部でもありました。神女(しんじょ)たちを通じて、王国祭祀を運営する宗教上のネットワークの拠点でもあったのです。
 首里城とその周辺では芸能・音楽が盛んに演じられ、美術・工芸の専門家が数多く活躍していたようです。首里城は文化芸術の中心でもあったのです。

守礼の門
しゅれいのもん
 守礼門は首里城外にある門の一つです。この門は首里城への事実上の入口です。享禄2年(1529)、尚清王時代に創建されました。
 門は四本の柱で支えられ扁額が掲げられています。これは三間牌楼形式と呼ばれ、中国でよく見られる形状の建物です。中国建築と日本様式の影響が見られる門です。
 2層の屋根は赤瓦葺きで、中央に「守礼之邦」の扁額が掲げられています。琉球は礼節を重んじる国であるという意味だそうです。
 沖縄戦で破壊され、昭和33年(1958)に復元されました。門の中央の通路は国王専用だったそうです。現在2千円紙幣のデザインに採用されています。

園比屋武御獄石門
そのひゃんうたきいしもん
 守礼門をくぐると左手に園比屋武御獄石門があります。国王が長旅に出る際、道中の安泰を祈願した拝所だったそうです。
 この石門は尚真王時代の永正16年(1519)に創建されました。昭和32年(1957)に石門だけ復元されています。
 扉以外は琉球石灰岩や微粒砂岩などを使用しながら、木造建築風に仕上げています。平成12年(2000)12月に琉球王国のグスク及び関連遺跡群の一つとしてユネスコ世界遺産に登録されました。

歓会門
かんかいもん
 首里城への第一の門が歓会門です。首里城の城郭内への入口になります。俗に「あまゑ御門」というそうです。 「あまゑ」は古い言葉で「歓び」を意味で「歓会」となったようです。
 歓会門は尚真王時代(1477-1526)に創建されたようです。沖縄戦で破壊されましたが、昭和49年(1974)に復元されています。
 中国風のアーチ式の門の上には入母屋造、本瓦葺きの木造建築の櫓が重ねられています。門の幅は3m程度であり正門の割には小さい感じがします。
 国王や役人、外国からの賓客だけが通ることができた正門だったそうです。両脇には石獅子が配置されています。

龍樋
りゅうひ
 歓会門をくぐって右手の方向にある石段を上ると途中右側に「龍樋」があります。「龍樋」の名称は龍の口から琉球一といわれた湧き水が流れ出ていることから名付けられたそうです。

 国王や中国からの冊封使(さっぽうし)の飲み水とされていました。龍の頭の部分は石に彫られたもので、大永3年(1523)に中国からもたらされたものといわれていますが、沖縄戦で一部破壊されたため戦後に修復されたそうです。

瑞泉門
ずいせんもん
 首里城第二の門です。「瑞泉」という名前は門の手前の「龍樋」に因んで付けられたといわれています。創建は文明2年(1470)頃といわれ沖縄戦で焼失後、平成4年(1992)に復元されました。

 瑞泉には立派なめでたい泉という意味があるそうです。国王や冊封使の飲料水となった清水は、琉球一と讃えられていたそうです。
 瑞泉門は別名「ひかわ御門」といわれています。「ひ」は樋のことで「かわ」は沖縄では井戸や泉の事を指します。

漏刻門
ろうこくもん
 漏刻門は首里城第三の門です。瑞泉門と同形式で造られています。
 「漏刻」というのは水時計のことで、この門の櫓に水時計が設置されていたことからこの名が付いたそうです。
 5世紀に創建されたそうです。老朽化のため昭和初期に撤去されましたが、平成4年(1992)に復元されました。
 国王に敬意を表すため、駕籠での入城が許されていた高官もこの門からは下りて歩いて入城したそうです。そのため「かご居せ御門(かごいせうじょう)」とも呼ばれています。
 石畳はざらざらした石が使われていました。滑らないように考えられたのかもしれません。
 石積みはすき間がないくらい精巧に切断されて積まれています。

日影台
にちえいだい
 漏刻門をくぐると広場があります。そこには日時計がおかれています。漏刻門の水時計の補助的な道具として使用されたようです。
 日影台には十二支が刻まれた時刻板に銅製の棒が取り付けられていたそうです。この場所付近は石で造られた広いテラスのようになっていて海まで一望できます。


万国津梁の鐘
ばんこくしんりょうのかね
 万国津梁の鐘は長禄2年(1458)に首里城正殿に掛けられた鐘だそうです。ただしこれはレプリカです。海洋貿易で栄えた琉球王国の気概を示す銘文で有名だそうです。
 この鐘は供屋(ともや)と呼ばれる建物に吊されています。古い絵図などの資料に基づいて復元されています。

広福門
こうふくもん
 漏刻門をくぐると左側は広場ですが、右側には今までとはかなり様式の違う広福門があります。創建年代は不明で、明治末期には撤去されたようです。平成4年(1992)に復元されました。
 正面に向かって左側が士族の財産をめぐる争いを調停する大与座、右側が神社仏閣を管理する寺社座という役所がおかれていたようです。

首里森御獄
すいむいうたき
 首里森とは首里城の別称です。御獄(うたき)とは沖縄の聖地または拝所のことだそうです。琉球開闢神話によれば、神が造った聖地であるとされ、首里城内で最も格式の高い拝所の一つなのです。

奉神門
ほうしんもん
 奉神とは「神をうやまう」という意味です。別名「君誇御門」(きみほこりうじょう)ともいわれています。3つの入口のうち中央は国王や中国からの冊封使など身分の高い人だけが通ることができたそうです。
 門に向かって左側は薬、茶、タバコなどを扱った「納殿」(なでん)、右側は城内の儀式などに使われた「君誇」という部屋になっていたそうです。

首里城正殿
しゅりじょうせいでん
 奉神門をくぐると、正面に「御庭(うなー)」があり、その正面奥に「正殿」があります。政務や儀式が行なわれていた首里城の顔です。幅約29m、奥行き約17m、高さ約16m、丸柱は直径約40cmあります。
 敷かれているタイルは磚(せん)という敷瓦で色違いの列によって儀式の時、位の順に並ぶ目印になりました。中央の道は「浮道」(うきみち)といい国王や冊封使など身分の高い人のみ通れました。
 「正殿」の正面、唐破風の妻壁中央には火焔宝珠、両脇には金龍と瑞雲の彫刻、中央上部には龍頭が飾られています。鮮やかな建物の色や龍の文様は中国風で、構造や正面の破風屋根などは日本風です
 現存の「正殿」は正徳2年(1712)頃に再建された「正殿」をモデルとし、平成4年(1992)に復元されたものです。琉球王国最大の3階建て木造建築物です。
 正面の石段脇に建つ細粒砂岩(にーび)から成る龍の彫刻「大龍柱」は昭和初期の改修時に向きを変えられて現在は対面しています。その奧にはもう一対の「小龍柱」があります。後の建物は現在展示室になっている番所・南殿です。
 龍は国王のシンボルで邪悪なものをはねつけるものとされていたそうです。本来5本の爪が4本しかありません。中国の国王に遠慮した印だとされています。

御差床
うさすか
 「正殿」の一階にある「御差床」です。「御差床」とは儀式や政治の際に国王が座る玉座のことです。背後の障子の裏側には二階に通じる階段があり国王がここに現われるときに使用されました。「御差床」の両脇には金龍と五色の雲が描かれた朱柱があります。
 二階は大庫裏(うふぐい)と呼ばれ、王家の催事が行なわれたところです。中央には一階と同様に「御差床」があります。その後方には「西のこちゃ」や国王と女官が国家の安泰などを祈願した「おせんみこちゃ」という間があります。
 かつては「御差床」の上部には中国の皇帝から贈られた扁額がいくつも架かっていたといわれています。現在、架かっている「中山世土」もその一つです。琉球国中山の地位を永遠に保証するという意味があります。

黄金御殿
くがにうどぅん
 黄金御殿は国王と王妃の居間や寝室があった場所です。正殿を境に西側が政治や外交を中心とした表の世界、東側は女性が取り仕切る奧の世界でした。

二階御殿
にーけーうどぅん
 二階御殿は「御住居所御殿」(ごじゅうきょしょうどぅん)とも呼ばれ国王の日常的な居室として使われました。創建は18世紀です。平成12年(2000)に復元されました。


右掖門
うえきもん
 「御庭」からの出口になっているのがこの「右掖門」です。国王の親族や女官の生活の場であった本殿裏側のエリアへ通じる門として機能していたといわれています。
 首里城にいくつかある裏門の一つである右掖門は15世紀頃の創建といわれています。他の建築物と同様、沖縄戦で破壊されました。発掘調査で遺構が確認され、この遺構の上に新たに石を積んで平成12年(2000)に復元されました。

久慶門
きゅうけいもん
 「久慶門」は現在、城郭内見学順路の出口になっています。「歓会門」が正門であったのに対し、「久慶門」は首里城北側の通用門で、主に女性が使用していたといわれています。
 「久慶門」は「ほこり御門」と呼ばれ、歓会門と同じく木造瓦葺きの櫓をもつ石造アーチ門です。「ほこり」は「歓会門」の「あまゑ」と対になっていて「よろこびほこる」という意味になるそうです。昭和58年(1983)に復元されました。



琉球村
りゅうきゅうむら
沖縄県国頭郡恩納村山田1130
Tel 098-965-1234


 琉球村は古きよき沖縄、琉球の文化・伝統を今に伝える体感型テーマパークです。琉球の時代、沖縄は、世界各国との貿易を盛んに行い、開かれた国家として、また、高い水準の文化を誇っていました。
 昔ながらの赤瓦屋根、サーターヤー(製糖小屋)など、のどかな風景が広がっています。築約200年の民家など、沖縄各地の古い建物を移築して、古きよき沖縄を再現しています。

 屋根には家の守り神シーサーが乗っていました。これらの民家の中で、紅型、藍染め、陶芸などの教室が開かれていて、実際に体験もできるのです。
 ここでは日本唯一の水牛車による手作りの製糖工場を見ることもできます。水牛が砂糖車(サーターグルマ)を引いてサトウキビを絞り、その汁を炊いて黒砂糖を作るという昔ながらの製糖方法を復元しています。
 旧仲宗根家住宅です。この家は、約180年前に読谷村座喜味に建てられた典型的な沖縄の民家でした。80年前(1904)に読谷村儀間に移築され、昭和59年(1984)7月に琉球村に移築されました。
 旧島袋家住宅です。ほぼ完全な原型をとどめている豪農の家屋です。ここには穀物を貯蔵するための高倉があります。沖縄の倉には高倉と、波照間島に見られる高床倉、地倉の3種があり、高倉は床を高く上げ通風を良くし、湿気を防ぐようにしています。
 サーターアンダギーというドーナツのような砂糖天ぷらの揚げお菓子を作って売っています。全国に発送もしてくれます。
 琉球絣、芭蕉布(ばしょうふ)、ミンサー織、久米島紬、首里(しゅり)織、読谷山花織(ユンタンザハナウイ)、宮古上布、八重山上布など、沖縄では各地域によって趣の異なる多種多様な織物が織られています。
 琉球王朝時代に盛んに行われた交易によって、さまざまな国から織物や技法が持ち込まれ各地へ広まり、その土地の風土や文化によって独自の技法や図柄へと変化したようです。
 多幸山ハブセンターの入口です。ハブとマングースの決闘を3D立体映像で見ることができます。昔は実際にやっていたのですが動物愛護の上から今は映像のみです。
 ハブは夜行性な ので、とてもまぶしがりやで、太陽の光を極端に嫌うようです。鼻の穴と目の間にあるピット器官は、熱を感じる働きをし、わずかな温度も察知し攻撃できるのです。大勢の沖縄の人々を苦しめました。
 明治時代、ハブの毒を消す血清がなく、かまれると死亡するケースが多く、ハブの被害は深刻でした。マングースはハブにかまれても死ぬことはなく、最後はハブの頭に食いついて、見事にしとめるのです。
 昔行なわれたハブとマングースの決闘ショーです。勝負はマングースの圧勝でした。ハブ退治用に沖縄本島に放たれたのですが他の動物や鳥などしか食べないためいまや社会問題になっています。
 琉球村では沖縄の雰囲気を味わうことができる沖縄の踊り「エイサー」を毎日やっています。一番右側の酒瓶やクバの葉の扇をもった変わった人はチョンダラーと呼ばれエイサーの名脇役です。
 エイサーとは沖縄各地の旧盆に行なわれる盆踊りの総称だそうです。「エイサー、エイサー」という念仏歌の声がその名のおこりだということです。祖霊の供養を目的とした青年による躍動的な踊りです。
 沖縄の方言でかきまぜることをカチャースンというそうです。カチャーシーという踊りは、同じ意味合いで喜びの感情をかきまわそうと、あたかも体で言い表すかのように、早弾きのサンシン(三線)が聞こえ出すと、手をこねり、床を踏み鳴らし、打ち興じます。



万座毛
まんざもう
沖縄県国頭郡恩納村字恩納2451


 沖縄本島のほぼ中央に位置し目の前には東シナ海が広がり、水平線がきれいに見渡せる絶景地です。たくさんの土産物のある駐車場から海に向かって歩いていくと象の顔をした岩が見えてきます。
 この場所が万座毛です。恩納村にあるエメラルド色の海に突き出た突起サンゴ礁の東シナ海に面した高さ20mの断崖です。
 海崖上は、天然芝で覆われた平坦な地となっています。「毛」とは沖縄のことばで「原っぱ」のことをいいこの平坦な地を指しています。
 18世紀初頭の琉球王尚敬(しょう・けい)がこの地を訪れたときに「万人を座するに足る毛」と称讃したことから万座毛と呼ばれるようになったそうです。
 「万人を座らせるに足る広い草原」は女性的な風景で、男性的な北陸の東尋坊と比べられるようです。
 天然の芝が広がる「毛」の周りの植物群落は、県の天然記念物に指定されているそうです。反対側には万座ビーチホテルが見えます。
 尚敬王の行幸に際して、地元の女流家人、恩納ナベが歌を詠んでいます。
 「波の音もとまれ 風の音もとまれ 首里天加那志 美御機拝がま」(波も風も穏やかになりなさい。国王が首里からはるばるいらっしゃるのだから、そのお顔を拝みたいものだ)
 復帰前までは万座毛一帯に無数のアンテナが建っていたそうです。中国、北ベトナム、北朝鮮の放送を受信する米国国務省所管の放送局基地だったのです。



辺戸岬
へどみさき
沖縄県国頭郡国頭村辺戸地先
 辺戸岬は沖縄本島の最北端に位置しています。岬の背後にある岩山は辺戸岳(248m)で、昔は北方からの航路の標識とされたそうです。
 辺戸岳は辺戸御嶽(へどうたき)といわれる聖地です。琉球の始祖アマミキョが最初につくった山といわれ、古くから島民の信仰を集めています。
 本土復帰前、この岬で遠くに見える沖永良部島とこの岬でお互いに焚き火を焚いて本土復帰を祈念した場所だそうです。祖国復帰闘争碑は本土への復帰を願って建てられた像なのです。



琉球城 蝶々園
りゅうきゅうじょう ちょうちょうえん
沖縄県国頭郡本部町山川390ー1
Tel 0980-48-3456
  自然を利用した500坪の蝶々ハウスには、滝が流れ、亜熱帯植物や原色の花々が咲き乱れています。赤色や整髪料で蝶がたくさん頭に集まってきます。
 本土では見られない日本最大の蝶オオゴマダラをはじめ、2000から3000の蝶々が乱舞しています。



国営沖縄記念公園
沖縄県本部町字石川424
 沖縄国際海洋博覧会(海洋博)が昭和50年(1975)7月19日から昭和51年(1976)1月18日まで世界初の「海洋」「海」そのものをテーマとして開催されました。
 沖縄の日本本土への復帰を記念したものでした。それと同時に、沖縄の復興と経済振興の促進を目的としていました。
  亜熱帯性の樹木や花々で彩られた本部(もとぶ)半島の陸と海にまたがる広大なエリアを舞台に、日本政府や沖縄県をはじめ外国政府35、国際機関3、民間企業7グループが出展し、入場者は約348万人を記録しました。
 現在では、観光沖縄を代表する本島北部観光の拠点、国営沖縄記念公園「海洋博公園」として生まれ変わりました。我が国唯一の大規模な熱帯・亜熱帯公園です。
 この公園には「沖縄美ら海(ちゅらうみ)水族館」、「おきなわ郷土村」、「熱帯ドリームセンター」、エメラルドビーチなどがあり、イルカショーなどを楽しむこともできます。
 公園内は、精霊が宿るとされるガジュマルの木をはじめ、たくさんの植物があふれています。

 海洋文化館です。海洋民族の生活用具と魚労具を展示しています。映像ホールではプラネタリウム映像を投影しています。
 エメラルドグリーンに浮ぶ島は伊江島です。標高172mの伊江城山は「イータッチュー」と呼ばれています。「タッチュー」とは尖っているという意味だそうです。
 伊江島は沖縄戦では有数の激戦地だったそうです。反戦平和資料館や芳魂(ほうこん)の塔、アーニー・パイル戦争記念塔などがあるそうです。
いるかスタジオ
 マナティー館です。マナティーは昭和53年(1978)と平成9年(1997)にメキシコ政府より寄贈されました。ジュゴンに似た体長4mのほ乳類です。
 メスのマヤちゃんです。マナティーはワシントン条約で保護されています。人魚のモデルともいわれています。
海の保育園
 イルカラグーンの中には人なつっこい数頭のイルカが待っています。
 まさにジョーズです。餌をおねだりしている感じです。口を開けると食べられてしまいそうです。
 オキちゃん劇場では無料でイルカのショーを見せてくれます。アクロバチックで華麗な演技を見せてくれました。 
 凄いジャンプ力です。名前を呼ばれるとちゃんと応答もするのです。おなかから絞り出した元気の良い声です。
 ちゃんとポーズもとれます。見物客の中から選ばれた人にも芸を見せます。病気でしっぽの一部を切り落としたイルカにはブリジストンの合成しっぽがつけられて元気に演技していました。



美ら海水族館
ちゅらうみすいぞくかん
 平成13年(2001)11月にオープンした沖縄美ら海水族館です。世界屈指の規模と内容を誇る水族館で、数多くの観光客や地元客で混みあっています。
 美ら海水族館では、サンゴ礁を彩る熱帯魚をはじめ、世界初の試みとして、世界最大の魚ジンベエザメや、世界最大のエイのマンタが複数飼育されています。
 マンタはオニイトマキエイといい全長5.5mもあります。3mのオオメジロザメやオオテンジクザメなど迫力満点です。世界最長飼育記録を保持している魚もたくさんいるようです。
 3つのテーマゾーンの1つの「サンゴの海」です。4階のゲートから入場すると陽光降り注ぐなかにたくさんの魚たちが泳いでいます。、
 2つめのゾーンは「黒潮の海」です。世界最大のアクリルパネルは高さ8.2m、幅22.5m、厚さ60cmでできています。拡大しないように特殊な工法で作られたということです。
 第3のゾーン「深海」です。ここではめずらしい発光生物などが飼育されています。まさに沖縄の海の中を体験できるのです。
 チンアナゴやニシキアナゴです。おうちは砂の中です。
 ヒメスリバチサンゴとクジャクベラです。
 マングローブです。亜熱帯や熱帯地域の河口などに育つ特異な植物群落です。
 アカモンガニです。甲に11個の赤い斑点が規則的に並んでいます。ハサミは左右対称ではなく強力です。



やんばる亜熱帯園
沖縄県名護市中山1024-1
 数千本のヒカゲヘゴ(シダ類)の原生林を利用して作られた亜熱帯植物園です。ヒカゲヘゴは古生代の生きた植物の化石といわれ高さが10mにもなります。
 園内にはヘゴとランのゾーン、アンスリウムゾーン、バナナ園などがあり、亜熱帯の花々や南国の果物をゆっくり見てまわることもできます。

 天然の湧き水も出ていてジャングルのような感じです。「亜熱帯花まつり」、「クワガタ虫王国」、「アンスリウムまつり」と季節によってイベントも開催されます。



東南植物楽園
沖縄県沖縄市字知花2146
 沖縄随一の植物園です。40万平方メートルの敷地に日本一のトックリヤシの並木などがそびえ立っています。

 ジャングルのようなエスニックガーデンと噴水のあるウォーターガーデンはブーゲンビリアのあるトンネルで行くことができます。



玉泉洞
りゅうせんどうりゅうせんどう
沖縄県玉城村(たまぐすくそん)前川1336
Tel 098-949-7460
 玉泉洞は、沖縄県南部の玉城(たまぐすく)村にあり、日本第2位の長さ(全長5km)を誇る鍾乳洞です。30万年の時をかけて形作られた100万本の鍾乳石は圧巻です。これは日本で最多だそうです。この鍾乳洞は沖縄の美しい珊瑚礁から生まれたそうです。
 全長5kmのうち見学できるのは890mですが結構距離はあります。東洋一の景観を誇っていると評判です。鍾乳洞の中は一年を通じて気温と湿度が一定なので、ハブ薬草酒を寝かしているそうです。
 少し前まで玉泉洞王国村という名前でしたが、今は「おきなわワールド 文化王国」となっているようです。
 文化王国では沖縄の伝統工芸の紹介をしています。陶芸・ガラス細工・染物なども実演しています。ここのエイサーは必見です。若者が一生懸命に熱演しています。




平和祈念公園
平和の礎
へいわのいしじ
 沖縄県糸満市摩文仁448ー2
平和祈念公園内
Tel 098-997-4123
 平和祈念公園は平成7年(1995)に沖縄戦最後の激戦地、摩文仁の丘一帯に「平和の心」を世界に伝えるという趣旨で落成しました。沖縄県立平和祈念資料館や平和の礎、沖縄平和祈念堂などがあります。

 石碑には国籍、軍人、非軍人を問わず、沖縄戦で亡くなったすべての人々の氏名が刻まれています。沖縄県民については、沖縄戦に限らず、全戦没者を対象としています。



ひめゆりの塔
ひめゆりのとう
沖縄県糸満市伊原671ー1
Tel 098-997-2100 ひめゆり平和記念資料館


 沖縄戦の犠牲となり、悲惨な最期を遂げたひめゆり学徒隊をまつった塔があります。犠牲となったひめゆり学徒隊の遺体は、喜屋武半島の山野に放置された遺骨を含め収骨合祀され、「ひめゆりの塔」が建てられました。
 沖縄県立第一高等女学校と沖縄県女子師範学校の校友会誌は、一校女は「乙姫」、師範は「白百合」という名前でした。両校が併置され、校友会誌もひとつになり、両方の名前をとって「姫百合」となったそうです。
 これらの女生徒達で編成された従軍看護隊がひめゆり学徒隊でした。昭和20年(1945)3月23日、ひめゆり学徒222人、教師18人は那覇市の南東5kmにある南風原の沖縄陸軍病院に配属されました。
 4月1日アメリカ軍は沖縄本島の中部西海岸に上陸し南下してきました。日本軍の死傷者は激増し、学徒たちは負傷した人たちの看護、水くみ、飯上げ、埋葬など奉仕しました。
 5月25日、撤退命令が出たため南風原の陸軍病院から南下して本部、太田、第一、第二、第三の各外科壕に配属されました。6月18日ひめゆり学徒の解散命令が出されました。
 6月19日、脱出のため、現在ひめゆりの塔がある第三外科壕に集合しましたがガス弾攻撃を受けたのです。ひめゆり学徒隊や兵士など多くが死亡しました。生還者はわずかでした。
 ひめゆりの慰霊碑です。ここにはなくなられた方の名前が刻んであります。ひめゆり部隊の犠牲者194人のうち、解散後の死者が128人というのは悲惨な戦争の結果でした。
  地面にある黒い穴は、最後に陸軍病院第三外科壕があった壕です。この洞窟の中には住民や軍人の遺骨に混じってひめゆりの少女たち数十体の白骨が重なり合っていたそうです。



ひめゆり平和祈念資料館
ひめゆりへいわきねんしりょうかん
沖縄県糸満市伊原671ー1
Tel 098-997-2100


 ひめゆり平和祈念資料館は平成元年(1989)に、ひめゆりの塔に隣接して建てられた資料館です。かつてひめゆり学徒隊の方々が学んだ学校の学舎を模して造られたそうです。平成16年(2004)4月に増設しています。
 沖縄戦と学徒隊について5つの展示室に分けて紹介しています。多目的ホールでは元ひめゆり学徒の講話や100インチスクリーンによる証言ビデオの映写も行なわれていました。
 資料館は戦争の悲惨さ残酷さを伝えてくれます。看護要員として日本軍と行動を共にし、死んでいった彼女達の遺留品、生存者の証言集なども展示しています。
 南風原の球18803部隊沖縄陸軍病院の壕が展開していた喜屋武スジの森を再現しています。
 ガス弾を投下された伊原第三外科濠を再現しています。ここにはひめゆり学徒のほか陸軍病院関係者、通信兵、住民など100名あまりいたようです。
  太陽の下で大手を振って歩きたい
 水が飲みたい、水、水
 お母さん、お母さん
 学友の声が聞こえます。



沖縄アウトレットモール あしびな
おきなわあうとれっともーる あしびな
沖縄県豊見城(とみぐすく)市字豊崎1ー188
Tel 098-891-6000


 平成14年(2002)12月、那覇空港に隣接したウォーターフロント・豊見城市豊崎地区に沖縄初のアウトレットモールとしてオープンしました。1万坪という広大な敷地に本格的なショッピングリゾートを満喫できます。
  ギリシャ風の建物で空港から車で約15分という近さです。空港との間にはシャトルバスが運行していて便利です。


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