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日本の旅
日本の旅       長崎

ハウステンボス
長崎県佐世保市ハウステンボス町1ー1
Tel 095-627-0001


 大村湾に面した152ヘクタールという広大な敷地に水と緑と花に包まれた、巨大リゾートパーク「ハウステンボス」があります。様々なイベントが四季を通じて開催され、毎日場内のあちこちで多彩なイベントが繰り広げられています。
 場内は「人と自然が共存する街」をテーマに、城や宮殿、教会など17世紀のオランダの建物や街並み、田園風景が再現され、全長6kmの運河によって分けられた10街区は、それぞれに異国情緒たっぷりです。
 ハウステンボス駅です。ハウステンボスに行く人をお迎えする駅だけあって、ちょっとおしゃれなレンガ調の2階建です。入国口までもレンガ敷きの橋が伸びています。
 ブルーケレンには,入国・出国(入場・退場)・ナイアンローデ城・テディベアキングダムがあります。
 ハウステンボス駅からの道はそのまま入国ゲートがあるブルーケレンへつながっています。左側に見えるお城のような建物はJR全日空ホテルです。
 ナイアンローデ城です。隣にはテディベアキングダムというテディベアの店があります。
運河の対岸にはワッセナーと呼ばれる別荘が見えます。まだ売り出しているようです。
 オランダ南部キンデルダイク−エルスハウト地方には19基の風車があります。国土の多くが海面より低いオランダにおいて風車は排水と灌漑に使用され、水害を防ぎ肥沃な大地ができたのです。
 ハウステンボスにもキンデルダイクが再現されています。何基もの風車が、訪れる人をやさしく迎えてくれます。
 園内には30万本の花が植えられているそうですが、ここキンデルダイクにはその半数が植えられているそうです。
 ニュースタッドには美しい噴水のあるマウリッツ広場を中心に、ハイテクを駆使した未知の世界を体験できるアミューズメントがあります。運河とドムトールン塔が印象的です。
ビネンスタッドは素敵なお店が並ぶショッピング街・パサージュや専門街のある、買い物の中心街です。ギヤマン・ミュージアムには4628個のガラスを使った世界最大級のシャンデリアが飾られています。
どこか懐かしいカロヨンやオルゴールの音が聞こえるカロヨン・シンフォニカです。オランダを中心に世界の鐘を展示しています。3人の小人と一緒に美しい音色を楽しめます。周りは運河に囲まれ、運河沿いに歩けば、オランダの街並みと水辺が堪能出来ます。



浦上天主堂
うらがみてんしゅどう
長崎県長崎市本尾町1ー79
Tel 095-844-1777


 浦上天主堂の建設計画は、明治6年(1873)キリシタン弾圧の禁制をとかれ自由を得た浦上地区の信徒達によって行われました。
 しかし、なかなか資金が集まらず明治28年(1895)にフランス人宣教師フレノ神父の設計による教会の建設が開始されました。
 そして大正3年(1914)、東洋一のレンガ造りのロマネスク様式大聖堂としてまだ未完成でしたが献堂式があげられたのでした。
 しかしそれも原爆により全壊してしまいました。現在の建物は昭和34年(1959)に再建されたものです。また原爆の爆風に耐えた唯一のアンジェラスの鐘が今も1日に3回鳴り響いています。
 昭和55年(1980)、レンガタイルで改装され往時の姿に復元されました。昭和56年(1981)2月26日、当時のローマ法王・ヨハネパウロU世がここ浦上天主堂での司祭叙階ミサを行いました。



平和公園
へいわこうえん
長崎県長崎市松山町
Tel 095-829-1314


 北村西望作の平和祈念像が中央に位置する公園です。人類史上2番目の原子爆弾が投下されたのは昭和20年(1945)8月9日午前11時2分でした。多くの尊い命を奪った原爆、その悲劇を二度と繰り返さないために、長崎市民が永遠の平和を願って築いたのがこの平和公園なのです。
 市北部の緑広がる園内には原爆落下中心地があり、平和を願うモニュメントなどが点在しています。 
 平和の泉は原爆の被爆者たちのめい福と世界恒久平和と核兵器廃絶の願いを込めて建設されたもので、石碑に被爆した少女の手記が刻まれています。



平和記念像
へいわきねんぞう
長崎県長崎市松山町(平和公園内)


 平和祈念像は平和公園のシンボルです。郷土出身の北村西望(きたむらせいほう)氏による青銅製で高さ9.7m、重さ30トン平和のシンボルとして造られました。平成12年(2000)2月には全面修復されました。
 天を指す右手は原爆の脅威を表わしています。水平に伸ばした左手は平和を示し、軽くとじたまぶたは原爆犠牲者の冥福を祈る姿だそうです。
 毎年8月9日には、平和祈念像の前で原爆で亡くなった約7万5000人の人々の慰霊祭と平和記念式典が行われています。世界恒久平和を願う長崎市のシンボル的存在になっています。



長崎原爆資料館
ながさきげんばくしりょうかん
長崎県長崎市平野町7ー8
Tel 095-844-1231


 長崎原爆資料館は平成8年(1996)に被爆50周年を記念し平和都市長崎のシンボルとして開館されました。地上2階・地下2階で爆心地に臨む高台に建てられました。
 熱線で溶けたビンや皿、そして多くの写真からみる長崎市内の被爆の惨状が、決して忘れてはいけない貴重な資料としてここに展示されています。
 原爆前の長崎の風景と原爆投下後の風景などを展示し原爆の恐ろしさを訴えています。原爆・平和関係の本が閲覧できる図書室、ビデオルーム、平和学習室、いこいの広場などもあります。



国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
こくりつながさきげんばくしぼつしゃついとうへいわきねんかん
長崎県長崎市平野町7ー8


 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館は平成5年(2003)に開館しました。昭和20年(1945)年8月9日に長崎市に原子爆弾が投下されました。その時に死亡した人々や、その後に亡くなった被爆者を追悼し、世界平和を願う施設です。
 館内には名簿を保存する追悼空間、被爆証言の視聴、手記や遺影、関連図書類が閲覧できる学習コーナー、来場者が平和のメッセージを記帳する平和・交流コーナーなどがあります。



長崎市平和会館
ながさきしへいわかいかん
長崎県長崎市平野町7ー8
Tel 095-844-1231


 長崎市平和会館は平和公園の学びのゾーンの中にあります。またこの建物の中に長崎市歴史民俗資料館と野口彌太郎記念美術館が併設されています。
 長崎市歴史民俗資料館には長崎市内で出土した旧石器時代から江戸期の考古資料を展示しています。昭和53年(1978)、本館が旧上海銀行長崎支店に、分館が旧長崎税関下り松派出所に開設されました。平成18年(2006)4月に平和会館に移転しました。
 野口彌太郎記念美術館は近代日本の代表的洋画家である野口彌太郎の作品を展示しています。平成5年(1993)に旧長崎英国領事館の場所に開館し、平成19年(2007)4月に、平和会館に移転しました。
 長崎平和会館入口には「原爆殉難教え子と教師の像」があります。長崎県内の教職員有志が昭和57年(1982)長崎原爆で亡くなった児童、生徒と教職員の計5529人を追悼しの霊を弔うために建立したそうです。



日本二十六聖人の殉教地(西坂公園)
にほん26せいじんのじゅんきょうち(にしざかこうえん)
長崎県長崎市西坂町7−8


 長崎市街を見下ろす西坂の丘は昭和31年(1956)公園となり、長崎県指定史跡となりました。この場所でペトロ・バプチスタ神父以下6人の宣教師と日本人信者20人が処刑されました。
 昭和37年(1962)6月列聖百周年を記念して、ここに舟越保武の日本二十六聖人の記念碑と今井兼次設計による鉄筋コンクリート3階建の二十六聖人記念館が建てられました。
 豊臣秀吉の命令により捕えられたキリシタンらは、京都、大阪で引き回され、左の耳たぶを切り落とされ、厳冬期、長崎まで歩かされました。そして慶長元年12月19日(1597/2/5)処刑されたのです。この殉教のできごとは、ヨーロッパに広く伝わり、ローマ教皇は「日本二十六聖人」と称して聖人に列しました。
 日本二十六聖人の記念碑は高さ5.6m、幅17mの記念碑です。御影石の台座の上に、26聖人の等身大のブロンズ像が彫られています。



日本二十六聖人記念聖堂 聖フィリッポ教会
にほんにじゅうろくせいじんきねんせいどう せいふぃりっぽきょうかい
長崎県長崎市西坂町7−8
Tel 095-822-6000


 日本二十六聖人の列聖百年を記念して昭和37年(1962)6月に記念館とともに建てられた聖堂です。スペインの建築家アントニオ・ガウディを日本に紹介した今井兼次による設計で、ガウディの影響を受けたモザイクの双塔が特徴です。
 大浦天主堂が日本二十六聖殉教者聖堂という正式な名称を持っていたため、26聖人殉教者の一人、聖フィリッポ・デ・ヘススの名をとって日本二十六聖人記念聖堂 聖フィリッポ教会という長い名前になったということです。
 24歳のメキシコ人聖フィリッポは、フィリピンで司祭になるための勉強を終え、司祭叙階を受ける帰路、日本に立ち寄りました。豊臣秀吉の命令により捕えられたキリシタンらとともに、京都、大阪で引き回され、ここ長崎西坂の丘で慶長元年12月19日(1597/2/5)処刑されてしまったのです。 
 教会の2本の塔には、庶民生活を表す、置物や、食器のかけらなどが一面にモザイクのように張り巡らされています。教会の壁や塔に埋め込まれている焼き物は、京都から長崎までの道沿いで作られた焼物が使われているそうです。26聖人が歩かされた苦しい道のりを表現したものです。



日本二十六聖人記念館
にほんにじゅうろくせいじんきねんかん
長崎県長崎市西坂町7ー8
Tel 095-822-6000


 長崎市街を見下ろす西坂公園の「日本二十六聖人殉教地」にある記念館です。昭和37年(1962)6月列聖百周年を記念して、日本二十六聖人の記念碑とともに建てられました。 昭和56年(1981)にはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世も来館されています。
 鉄筋コンクリート3階建の記念館および隣接する聖堂の設計を手がけたのはアントニ・ガウディの研究者でもあった今井兼次です。
 ここでは毎年、処刑された2月5日に二十六聖人の殉教記念祭が行われています。
 豊臣秀吉の命令により捕えられたキリシタンらは、京都、大阪で引き回され、左の耳たぶを切り落とされ、厳冬期、長崎まで歩かされました。そして慶長元年12月19日(1597/2/5)処刑されたのです。この殉教のできごとは、ヨーロッパに広く伝わり、ローマ教皇は「日本二十六聖人」と称して聖人に列しました。
 記念館では26人の殉教者を称えると共に、聖フランシスコ・ザビエルの渡来から明治政府下の宗教弾圧に至るまで、330年間のキリスト教の歴史を紹介しています。 長谷川路可のフレスコ画「長崎への道」、フランシスコ・ザビエルの書簡などキリシタン関連の貴重な品々が収蔵されています。
潜伏キリシタンの墓碑



旧香港上海銀行長崎支店記念館
きゅうほんこんしゃんはいぎんこうながさきしてんきねんかん
長崎県長崎市松が枝町4ー27
Tel 095-827-8746


 イギリスの銀行である香港上海銀行は明治25年(1892)に長崎に支店を開設し、ギリシア古典建築様式のこの建物は明治37年(1904)に建てられました。建築界の異才・下田菊太郎が設計した現存する唯一の遺構でレンガと石造りの3階建てです。
 この支店は当時神戸以西では唯一の外国銀行だったそうです。外国為替やロンドン、上海、香港における外貨の売買を主要業務とした特殊為替銀行でした。
 その後、長崎県がこの建物を買収し梅香崎や大浦警察庁舎として使用しました。そして長崎市が買収し、昭和53年(1978)、長崎市立歴史民俗資料館の本館となりました。資料館はその後平和会館に移転しました。
 平成8年(1996)長崎市旧香港上海銀行長崎支店記念館としてオープンしました。1階は資料館のほか、銀行業務を行っていたカウンターなどが残され多目的ホールになっています。2階は明治期の居留地での生活、3階は諸外国との貿易の歴史の資料を展示しています。平成元年(1989)、国の重要文化財に指定されました。



長崎市べっ甲工芸館(旧長崎税関下り松派出所)
ながさきしべっこうこうげいかん
長崎県長崎市松が枝町4ー33
Tel 095-827-4331


 長崎市べっ甲工芸館は、4年間の保存修理工事を終えた旧長崎税関下り松派出所に、平成14年(2002)4月に開館しました。長崎の伝統工芸品、べっ甲細工の技術と技能を保存するために設けられました。館内にはべっ甲細工の貴重な作品が300点近く展示されています。
 長崎税関下り松派出所は、明治31年(1898)に建設されました。庁舎は、正面を海に向かって立つ煉瓦造りです。平屋建の小規模な建物で、正面両端に三角破風を見せた端正な意匠になっています。
 敷地は煉瓦塀で囲まれていて、内部は検査場、倉庫、事務所などになっていました。明治時代の税関施設の状況をよく伝えていて、平成2年(1990)3月に国の重要文化財に指定されました。



旧長崎英国領事館
きゅうながさきえいこくりょうじかん
長崎県長崎市大浦町1ー37


 旧長崎英国領事館は上海英国政府建築課技師ウィリアム・コーワンの設計に基づき、後藤亀太郎が施工し明治41年(1908)に完成しました。
 レンガ造り2階建の本館は周囲にベランダをめぐらし、正面2階にはイオニア式の柱があります。1階は事務室、2階が領事の住宅でした。敷地はレンガの塀や石塀で囲まれています。
 第二次世界大戦中にこの領事館は閉鎖されました。昭和30年(1955)長崎市がこの建物を買い取り、児童科学館として活用したのち、野口彌太郎記念美術館になりました。
 施行から100年以上経ち、老朽化が進んだことから、保存改修工事を行うことになりました。現在、野口彌太郎記念美術館は平和公園の中の平和会館に移転しています。



長崎出島
ながさきでじま
長崎県長崎市出島町
Tel 095-818-8550


 長崎の出島は大正11年(1922)「出島和蘭商館跡」として国指定史跡となりました。出島は寛永11年(1634)江戸幕府の鎖国政策の一環として長崎に築造された1.5haの扇型の人工の島です。
 最初はポルトガル人を管理する目的で造られましたが、キリスト教の布教と植民地化を避けるため国外追放としたため、寛永8年(1641)平戸にあったオランダの東インド会社の商館が移され、オランダ人が居住するようになりました。
 以後2百年以上、この出島でオランダ貿易が続けられました。日本とヨーロッパを結ぶ経済・文化・学術の交流が行われ、日本の近代文化に大きな役割を果たしました。



長崎水辺の森公園
ながさきみずべのもりこうえん
長崎県長崎市出島町〜常盤町
Tel 095-818-8550


 長崎水辺の森公園は平成16年(2004)3月に全面オープンしました。長崎県美術館や長崎港周辺の再開発事業の一環として港内を埋め立てて造成された公園です。長崎港に面した公園には芝生公園、野外劇場、水の庭園、散策路、レストランなどがあります。
 全長900mの運河がのびる6.5haの敷地は3つのエリアに分かれています。都市に面する「水辺のプロムナード」、海に面した芝生広場と森の「大地の広場」、山からの湧水を利用した「水の庭園」です。そしてそれぞれのエリアを橋で繋げています。



長崎県美術館
ながさきけんびじゅつかん
長崎県長崎市出島町2−1
Tel 095-833-2110


 長崎県美術館は、平成17年(2005)、長崎県立美術博物館を引き継ぐかたちでオープンしました。外交官須磨彌吉郎の寄贈したコレクションを基に、ピカソやダリなどスペイン美術コレクション千点以上を収蔵し、アジアでも有数の規模を誇っています。
 建物はグッドデザイン賞や多くの賞を受けています。運河を挟んで2つの建物が建てられています。スペイン美術や長崎ゆかりの美術を展示する美術館棟、ミュージアムショップや情報コーナーなどがあるギャラリー棟です。建物を結ぶ空中回廊でカフェも楽しめます。「呼吸する美術館」をコンセプトに日本設計と建築家の隈研吾が設計を手がけました。



孔子廟 中国歴代博物館
こうしびょう ちゅうごくれきだいはくぶつかん
長崎県長崎市大浦町10ー36
Tel 095-824-4022


 明治26年(1893)、清朝政府が建てた海外唯一の廟です。中国文化の香り漂う大成殿などオリエンタルな空間が広がっています。
 色鮮やかな建物は中国の華南と華北の建築様式が融合した美しさです。廟全体に広がる朱色は魔除けと慶びを表しているのだそうです。
 孔子像や前庭にずらりと並んだ72体の賢人像など石製のものはすべて中国から取り寄せたものだそうです。 論語をはめ込んだ壁面も見どころです。
 併設されている中国歴代博物館には中国歴史博物館提供の出土文化財や北京故宮博物院提供の宮廷文化財が展示されています。



オランダ坂
おらんだざか
長崎県長崎市東山手町


 長崎の人々は東洋人以外の外国人のすべてを「オランダさん」と呼んでいたそうです。そのため江戸時代は、洋館が建ち並ぶ居留地の坂すべてをオランダ坂と呼んでいたのだそうです。
 今では東山手にある活水女子大学へと続く石畳がオランダ坂として有名になっています。てくてく歩いていくと東山手洋館群へ入っていきます。



東山手十二番館
ひがしやまて12ばんかん
長崎県長崎市東山手町3ー7
Tel 095-827-2422


 東山手十二番館は石畳のオランダ坂を登りきった、活水学院の隣に建っています。プロシア領事館として建設され、その後アメリカ領事館やメソジスト派(婦人外国伝道協会)の宣教師の住宅として利用されてきました。
 明治元年(1867)頃に建設され、東山手居留地洋風住宅群に残る洋館の中で最も古いの建物で、国の重要文化財に指定されています。
 正面中央の幅広い廊下、3つの大きな居室、3面に付いた幅広いベランダなど領事館時代の名残を見ることができます。平成7年(1995)に修復、復元されています。現在は、長崎市旧居留地私学歴史資料館として公開されています。



旧斉藤邸
きゅうさいとうてい
長崎県長崎市東山手町3ー7


 東山手洋風住宅群の1つで、東山手十二番館の隣に建っています。明治後期の建築で、ベランダの2本柱、半八角形と半円形の出窓という珍しい構造です。



活水女子短期大学ラッセル記念館
かっすいじょしたんだいらっせる記念館
長崎県長崎市東山手町3ー7


 活水学院の創始者エリザベス・ラッセルにちなんだラッセル記念館です。現在は同窓会館に使用されています。ラッセルはアメリカ・メソジスト監督教会の婦人外国伝道協会に所属していたアメリカ人宣教師です。レンガ塀や石段など居留地時代の風情が漂っています。



新地中華街
しんちちゅうかがい
長崎県長崎市新地町


 元禄15年(1702)に唐人屋敷の蔵がつくられ、以来中国人の居留地として栄えた街です。中華料理店や雑貨店など約40店が軒を連ね、 横浜、神戸に並ぶにぎやかさです。



眼鏡橋
めがねばし
長崎県長崎市魚の町


 中島川にある眼鏡橋は寛永11年(1634)唐僧で興福寺の2代目住職であった黙子如定(もくすにょじょう)禅師によって架けられたそうです。
 日本初の石造りアーチ橋で、水に映った姿が眼鏡のように見えるためこの名で呼ばれていました。明治15年(1882)、正式に眼鏡橋と命名されたそうです。
 中島川には、14のアーチ石橋がありました。昭和57年(1982)の長崎大水害により、眼鏡橋ほか2つの橋が一部崩壊し6つの橋が流失しました。眼鏡橋は昭和58年(1983)に復元されました。国の重要文化財に指定されています。



興福寺
こうふくじ
長崎県長崎市寺町4ー32
Tel 095-822-1076


 東明山興福寺(こうふくじ)は、長崎三福寺の一つで日本最古の黄檗宗の唐寺です。三江(南京)出身の信徒が多いため、南京寺といわれ、山門が朱塗りであるため、あか寺とも呼ばれています。 
 元和6年(1620)頃、真圓(しんえん)が小庵を造ったことに始まります。第2代黙子如定(もくすにょじょう)は日本最古の眼鏡橋を架けたことでも有名です。第3代超然は南画の祖として敬まれています。
 江戸時代初期の長崎は、朱印船貿易、唐船貿易の奨励により中国人が多く住んでいました。キリスト教禁令で仏教徒であることを証明するために、興福寺、崇福寺、福済寺、聖福寺など、唐寺が次々に建てられたのでした。
 日本で黄檗宗を開いた明の高僧隠元隆g(いんげんりゅうき)禅師も初めての渡航後、住職として滞在し、大きな堂宇が建立され隆盛を誇りました。大雄宝殿(本殿)と旧唐人屋敷門は国の重要文化財に指定されています。

 興福寺に最初に建てられた山門は、3間3戸8脚の総朱丹塗りの豪壮雄大な門です。入母屋造りで単層屋根になっています。山門上部の扁額「初登宝地」「東明山」は隠元禅師の御書です。
興福寺山門
 山門は、承応3年(1654)隠元禅師が住持中、諸国より寄せられた多大な寄進で建てられました。寛文3年(1663)の長崎大火で全焼しましたが、元禄3年(1690)に、日本人工匠の手で再建されました。細部は和風様式になっています。原爆で被害を受けましたが復元されています。
興福寺山門

 興福寺本堂には大雄宝殿の扁額が掲げられています。大雄宝殿と呼ぶのは、釈迦(大雄)を本尊としているからです。本堂は寛永9年(1632)黙子如定が建立しましたが、寛文3年(1663)の市中の大火で焼失。再建されましたが、慶応元年(1865)の暴風で大破、明治16年(1883)新築されました。
興福寺本殿
 雄大な重層切妻造りで、国の重要文化財に指定されています。すべて中国技術者の手による純中国建築で、資材も中国より運送して建造されたそうです。柱や梁には、人物、鳥獣、花が彫刻されています。氷裂式組子の丸窓、アーチ型の黄檗天井、大棟上の瓢瓶などは珍しく、中国南方建築の代表作とされています。
興福寺本殿

 興福寺の媽姐堂(まそどう)は天海司命堂と呼ばれています。寛文3年(1663)の市中大火で焼失し、寛文10年(1670)頃、再建された興福寺最古の堂宇です。本尊は、天后聖母船神で、脇立は赤鬼青鬼と呼ばれる千里眼と順風耳です。建築様式は和風を基調とし、内外総朱丹塗り、黄檗天井の前廊、半扉、内部化粧屋根式天井など唐風も見られる建物です。
興福寺媽姐堂
  媽姐(まそ)とは海の航海の守護神で、唐船には必ず祀られていました。中国宋代の福建省にあった土俗的信仰でしたが、元代には江南から北京へ糧米を運ぶすべての船舶に祀られたそうです。船が港に在泊中、媽姐像は船から揚げられ媽姐堂に安置され、航海安全を祈りました。長崎における唐寺は最初、媽姐堂として発足したようです。
興福寺媽姐堂

 旧唐人屋敷門は天明4年(1784)の唐館全焼の大火以降の唐人の住宅門と推定されています。この門には中国特産の広葉杉が使われていて、建築様式も中国式特有のものです。扉は二重で、内門は貴人来臨専用となっています。昭和35年(1960)、唐人屋敷に遺存した門は興福寺に移築されました。
旧唐人屋敷門
 元禄2年(1689)十善寺郷に1万坪の広大な唐人屋敷ができました。来泊唐人の民宿が禁じられ、皆このここで居住するようになりました。 旧唐人屋敷門はこの時代の遺構として国の重要文化財に指定されています。
旧唐人屋敷門

 鐘鼓楼は、寛文3年(1663)の大火の後、元禄4年(1691)に五代悦峰禅師により再建された堂宇です。2階建てで、2階には梵鐘が吊られ、太鼓が置かれていました。梵鐘は戦時中に供出して今はありません。1階は禅堂として使用されました。
興福寺鐘鼓楼
 2階は、梵鐘、太鼓の音を拡散させるため、花頭窓が四方に開き、周囲に勾欄をつけてあります。軒回りは彫刻彩色で装飾され、他の木部は朱丹塗りです。長崎県の有形文化財に指定されています。屋根の鬼瓦は外向きが鬼面で厄除け、内向きが大黒天像で福徳の神になっています。.
興福寺鐘鼓楼

 中島聖堂(長崎聖堂)は東京の湯島聖堂、佐賀県の多久聖堂とともには、日本三聖堂のひとつに数え上げられています。中島川のほとりにあったので「中島聖堂」と呼ばれ、長崎奉行の保護下で隆盛を極めました。昭和34年(1959)杏檀門保存のために興福寺に移築されました。門扉に大学章句の一節が彫ってあるので、大学門と呼ばれています。
中島聖堂遺構大学門
 中島聖堂は、正保四年(1647)に儒学者・向井元升(げんしょう)が後興善町に孔子廟及び学舎を開いたことに発します。火災などで一時衰退しましたが、元升の子元成が京より帰来し再興させました。宝永7年(1710) 伊勢町の旧鋳銭所跡(中島銭座)に移り、翌年再建されました。
中島聖堂遺構大学門

 興福寺にある三江会所門(さんこうかいしょもん)は江南、浙江、江西の3省出身者が明治初期に設立した集会所の門です。明治元年(1868)唐人屋敷の処分が始まると、中国の3省出身者が霊を祀る三江祠堂を建て、明治13年)三江会所を設置しました。原爆で大破して、今は門だけが現存しています。
興福寺三江会所門
 中国の3省出身者にとって興福寺は創建以来の菩提寺であり、同郷会館でもありました。三江会所門は中央に門扉、左右は物置の長屋門式建物です。門扉を中心に左右に丸窓を配しています。肘木(ひじき)、紅梁(こうりょう)、彫刻など細部は純中国式です。
興福寺三江会所門

 庫裡の入口にさがる巨大な魚鼓は、正式には「はんぽう」いい、お坊さんたちに飯時を告げるため木彫りの魚です。中国の代表的な魚である鰍魚(けつぎょ)を象っています。
興福寺魚板



亀山社中跡
かめやましゃちゅうあと
長崎県長崎市伊良林町2ー7ー24


 亀山社中跡は坂本龍馬が日本初の商社「亀山社中」を設立した所です。亀山とは当時のこの辺りの地名で、社中とは仲間を意味します。時に慶応元年(1865)5月のことでした。
 亀山社中の事業は、航海・海運・貿易などでした。グラバー商会などから仕入れた銃器などを藩に売却し、薩長同盟の締結にも大きな役割を果たしました。慶応3年(1867)亀山社中は土佐藩直属の「海援隊」となり、坂本龍馬は隊長になりました。



崇福寺
そうふくじ
長崎県長崎市鍛冶屋町7ー5
Tel 095-823-2645


 聖壽山崇福寺は、黄檗宗(おうばくしゅう)のお寺で興福寺・福済寺とともに「長崎三福寺」に数え上げられています。寛永6年(1629)長崎に居留していた中国福建省の人たちが故郷の僧超然を迎えて創建しました。
 中華様式の唐寺としては日本最古のお寺で、福建省の出身者が多いため福州寺といわれました。近くの興福寺は南京出身者が多いため南京寺といわれました。
 長崎の唐寺の特色は媽祖堂(まそどう)をもっていることです。媽祖は海の神様であり、当時、唐船主たちが航海安全を祈願して祀ったものです。堂内の仏像仏具類は、中国人名匠の手によるもので、明朝末期の貴重な物です。
 第一峰門と大雄宝殿は国宝に指定されています。三門、鐘鼓楼、護法堂、媽姐門は国の重要文化財に指定されています。他にも県指定有形文化財が3つ、市指定有形文化財が6つある文化財の宝庫になっています。

 入口にある門は三門と呼ばれ二階建ての楼門になっています。竜宮城に似ていることから竜宮門とも呼ばれています。3つの門扉があることから三門といわれます。また「三門」は「空解脱門」「無想解脱門」「無作解脱門」であり、悟りの境地に至るために通る三つの門を意味しています。
崇福寺三門
 嘉永2年(1849)棟梁大串五郎平が、中国人の指導を受けて造ったそうです。中央にある「聖壽山」の扁額は隠元禅師の筆です。国の重要文化財に指定されています。
崇福寺三門

 崇福寺の第一峰門は国宝です。唐門・海天門・二の門・中門・赤門ともいわれています。「第一峰」の扁額は隠元禅師の弟子で崇福寺の住職を務めた即非禅師(そくひ)禅師の書です。三門ができる前はここが第一の門だったそうです。
崇福寺第一峰門
 第一峰門の扉には、青い蝙蝠(こうもり)と牡丹の紋が飾られています。蝙蝠の蝠と福は同じ発音で幸福を意味します。牡丹の花は百花の王、強さを表す縁起物です。明暦元年(1655)この門で隠元禅師を迎えたそうです。
崇福寺第一峰門

 崇福寺の本堂には大雄宝殿の扁額が掲げられています。大雄宝殿と呼ぶのは、釈迦(大雄)を本尊としているからです。唐の商人の寄進により、中国で切り組みされ唐船で運ばれ、生保3年(1646)に建立された堂宇です。長崎市に現存する最古の建物で、国宝に指定されています。
崇福寺本堂
 当初は単層、平屋建てでした。天和元年(1681)の頃、日本人棟梁の手によって2階建てに重層化されました。1階部分は、軒回りに擬宝珠付き垂花柱があり、全廊部分が黄檗天井と呼ばれるアーチ型の天井になっています。2階部分は和様を基調とし、日中工匠の合作の美しさを表しています。
崇福寺本堂

 護法堂の隣に鐘鼓楼が建っています。もとは六角円堂で、書院前庭の南隅にあったそうです。享保13年(1728)今ある位置に現在の重層の堂宇が建てられました。2階建てで、2階には梵鐘が吊られ、太鼓が置かれています。梵鐘や太鼓の音を響かせるために、丸窓、火燈窓など開口部が多くなっています。
崇福寺鐘鼓楼
 鐘鼓楼は軸部の部分は中国人名匠の手により造られたようですが、棟札に「木匠頭荒木治右衛門」との記があることから護法堂と同じく日中工匠の合作と考えられます。国の重要文化財に指定されています。
崇福寺鐘鼓楼

 護法堂は享保16年(1731)中国工匠によって再建された堂宇です。中央に観音堂、右が関羽を祀る関帝堂、左に韋駄天を祀る天王殿があります。即非が書いた扁額の「護法蔵」から護法堂と呼ばれるようになりました。
崇福寺護法堂
 軸部は中国で切り組み、唐船で運び、日本人棟梁が建てたと思われます。天井や木の組み方、扉などは中国様式、破風や懸魚などは日本様式です。鐘鼓楼と同じく日中工匠の合作と考えられます。国の重要文化財に指定されています。
崇福寺護法堂

 媽祖門は、文政10年(1827)に再建された建物です。媽姐堂の門として、また大雄宝殿と方丈(僧堂)を結ぶ渡り廊下としての役割も兼ねています。媽祖門を構えた媽祖堂は、全国で唯一、ここ崇福寺のみで国の重要文化財に指定されています。
崇福寺媽姐門
 8脚門3間3戸形式で日本様式が基調となっていますが、扉の前部は黄檗宗特有の黄檗天井で造られ、後部は山形(船底)天井で中国様式も取り入れられています。
崇福寺媽姐門

 媽姐堂は寛政6年(1794)、唐船主らが白砂糖1万斤(きん)の代銀12貫目を寄進し、大改修を加えて再建されたものといわれています。媽姐(まそ)とは海の航海の守護神で、唐船には必ず祀られていました。
崇福寺媽姐堂
 基壇上の勾欄(こうらん)・前廊の黄檗(おうばく)天井・半扉などは中国様式で細部は日本様式です。媽姐像を中心に安置し、右側に順風耳の立像、左側に千里眼の立像があります。堂と門の間の石畳は、寛文11年(1671)に造られたもので長崎でも最も古い時代のものです。
崇福寺媽姐堂

 県有形文化財に指定されている梵鐘は、正保4年(1647)鍛冶屋町の初代鋳物師阿山助右衛門が作ったものです。長崎市内の寺院の梵鐘を6個鋳造していますが、今残っているのはこの鐘だけです。開創時の29名の檀越名と554両という寄進額が刻まれいます。
崇福寺梵鐘

 大釜は天和2年(1682)に2代目住職千凱(千呆)が鍛冶屋町の阿山家二代目鋳物師安山(あやま)弥兵衛に造らせたものです。 大飢饉に襲われた多くの人々を救うため、この大釜で粥を炊き命を救ったということです。
崇福寺大釜



大浦天主堂
おおうらてんしゅどう
長崎県長崎市南山手町5ー3
Tel 095-823-2934


 江戸時代末期の元治元年(1864)にフランス人・プチジャン神父によって建てられた日本最古の木造ゴシック様式の教会です。大浦天主堂の正式名称は「日本26聖人殉教者聖堂」といい、殉教の地である西坂の丘に向いているそうです。別名フランス寺と呼ばれ昭和8年(1933)に国宝に指定されています。
 豊臣秀吉の禁教令により、慶長元年(1597)に、長崎西坂の地で処刑されたキリスト教徒、いわゆる日本26聖人に捧げるためにこの聖堂は建立されました。
 元治2年(1865)天主堂を参観にきた浦上山里村の杉本ユリら15人がプチジャン神父に、キリシタンであることを告げました。長崎県内だけでも数万人のキリシタンが250年間、密かに信仰を守ってきたのです。「潜伏キリシタンの発見」は当時の教皇ピウス9世のもとにもたらされた。教皇は感激して、これを「東洋の奇蹟」と呼んで感激させたということです。
 昭和20年(1945)長崎に落とされた原爆で被爆し破損しましたが、爆心地から比較的離れていたため焼失は免れました。ステンドグラスは爆風で大破しました。現在の物はパリから取り寄せたものだそうです。



旧羅典神学校(大浦天主堂)
きゅうらてんしんがっこう
長崎県長崎市南山手町5ー3 (大浦天主堂内)
Tel 095-823-2934


 大浦天主堂に向って右側に旧羅典(ラテン)神学校が隣接しています。プチジャン神父が日本人聖職者育成の目的に建てられたもので、国の重要文化財に指定されています。
 我が国初期の木骨楝瓦造りです。明治8年(1875)に完成し、大正15年(1926)まで、羅典神学校校舎兼宿舎として使用され、以後、司祭館や集会所にも使用されたそうです。
 大浦天主堂での信徒発見の後も、キリシタンに対し弾圧があったため、ミサ(礼拝)や教育は密かに行う必要がありました。プチジャン神父は大浦天主堂の司祭館を改造して秘密の部屋をつくり、そこでミサを行い、日本人司祭育成のため教育も行いました。これが旧羅典神学校の前身です。
 建物の内部は「キリシタン資料室」として、公開されています。踏絵、マリア観音、納戸神やキリスト教関係の資料およびコルベ神父に関する資料を展示しています。



グラバー園
ぐらばーえん
長崎県長崎市南山手町8ー1
Tel 095-822-8223


 ここ南山手地区一帯は、鍋冠山の麓に広がる斜面地で、グラバー園はその高台の一角に位置しています。長崎港を見下ろす高台に位置する住宅地でその昔、外国人の居留地だったところなのです。

 緑と季節の花々に囲まれた園内は異国情緒を存分に味わうことができます。
 昔の「グラバー邸」の場所付近に旧ウォーカー邸、旧リンガー邸、旧オルト邸、旧三菱第2ドックハウス、旧長崎地方裁判所長官舎などの洋館を解体移転して園内に設置し3万uの広さを持つ「グラバー園」に名称変更され、今日に至っています。
 メインの旧グラバー邸は、文久3年(1863)に建築されたコロニアル・スタイル(バンガロー式)の瀟洒な平屋建てです。四葉のクロ−バ−の形をした屋根になっています。
 応接室、寝室、事務所などがあり、資料も展示されています。オペラ「蝶々夫人」ゆかりの地とされ、現存する木造洋館では日本最古のものとなっています。
 複雑で独特な凸字形の平面計画となっていて、 施工したのは、 大浦天主堂やオルト邸を建築した天草の職人小山秀(小山商会)だったそうです。
 この邸宅の主、トーマス・グラバーは英国人で21歳の時上海から渡来し日本でグラバ−商会を設立しました。 薩摩, 長州, 土佐, 佐賀の藩士と手を握り、 武器, 弾薬等の売り込みで、 短期間のうちに財をなしました。



長崎伝統芸能館
ながさきでんとうげいのうかん
長崎県長崎市南山手町8−1  グラバー園内
Tel 095-822-8223


 グラバー園出口に長崎伝統芸能館があります。長崎の秋の大祭「長崎くんち」に使われる豪華絢爛な踊り龍、龍船、唐人船、傘鉾などを展示し、伝統的な祭りを紹介しています。
 長崎くんちは、長崎市民の氏神、鎮西大社諏訪神社の祭礼で、10月7日から3日間町を挙げて開催されます。寛永11年(1634)に神前に謡曲「小舞」を奉納したのが始まりといわれ、旧暦の9月9日(くんち)に行われました。



島原市
しまばらし
長崎県島原市


 長崎県の南東部に島原半島はあります。島原市の海の玄関、島原港には、熊本から高速フェリーで30分でいけます。島原市は、目の前に有明海、後ろに「雲仙天草国立公園」を有する風光明媚なところです。
 島原市の人口は約4万人です。日本名水百選に選ばれた湧き水で泳ぐ鯉は、人々の心を和ませます。雲仙普賢岳や天草四郎の島原の乱が有名です。



島原城
しまばらじょう
長崎県島原市城内1ー1183ー1
Tel 0957-62-4766


 元和2年(1616)大和(奈良県)五条から島原に移封した松倉豊後守重政によって元和4年(1618)から7年の歳月を費やして築かれた城です。本丸には安土桃山様式建築の粋を集めた総塗り込め白壁の美しい五層の天守閣がそびえます。三層櫓が3カ所ある豪壮堅固な城構えです。
 南北に連なる連郭式平城で、外郭は周囲約4kmの長方形で塀をめぐらし、城門が7か所、平櫓が33か所あったそうです。内郭は堀にかこまれた本丸・二の丸を設け、その北に藩主の居館である三の丸が造られていました。別名を森岳城、高来城ともいわれていたそうです。
 城主は譜代の高力、松平、戸田と代わりましたが安永3年(1774)、松平(深溝)忠恕が7万4千石で入封して以降世襲して明治に至りました。その間、延宝2年(1674)の殿舎の焼失、安永6年(1777)の台風による三重櫓・平櫓の倒壊、寛政4年(1792)の眉山爆発による被害など何度も損害を受けてきました。
 現在の天守閣は昭和39年(1964)に再建され、資料館として利用されています。天守閣は360度見渡せる展望所になっていて、遠く普賢岳なども一望できます。この景色からキリシタンの悲しい歴史があったことなど思うことができません。

島原の乱
 島原の乱は、島原半島の南部に位置する原城跡に籠城した島原天草のキリシタン農民と浪人衆が、幕府の大軍を相手に約3ヶ月もの攻防戦の末、幕府に多大な損害を与え、落城の際一人残らず殺害された日本史上の大事件でした。
 松倉重政とその子勝家の権力者としての刃は、キリシタンに止まらず、領民全てに向けられていました。参勤交代、公儀普請役など大名に課役を果たすため財政難となり、「搾れるだけ搾る」と農民からきびしい年貢の取り立てなどを行ないました。農民生活が窮迫し不満が高まっていました。
 20年前に天草を追放された宣教師ママコスが「25年後に天変地異が起こり、人は滅亡に瀕するであろう。この時16歳の天童が現れ、キリストの教えに帰依する者を救うであろう」と語っていました。各地に異常な現象が相次ぎ益田甚兵衛の息子四郎は幼少の頃から利発で救世主として慕われたのでした。
 島原半島の口之津村(現在の口之津町)の百姓の嫁が、年貢を収められずに捕らえました。身を切る冷たい川の水につけられて臨月の体だった嫁は、6日目に水中で子を産み落とし、そのまま母子ともに死んでしまいました。
 寛永14年(1637)10月、有馬でキリシタンの集会が行われ、代官の林兵左衛門はこれを怪しんでどなりこみ、逆に殺されてしまいました。それが一揆暴発の発端でした。
 翌日、島原の農民たちは島原城を攻めました。天草でも立ち上がり、本渡で激戦の末、天草番代三宅藤兵衛を討ち死にさせました。富岡城(現在の天草郡苓北町)も攻撃しましたが両城とも落とせませんでした。そして原城で籠城したのです。
 一揆勢、島原・天草軍合わせて2万8千、幕府軍12万でした。寛永15(1638)年元日、幕府軍が総攻撃しましたが失敗し、総大将板倉重昌が戦死しました。後を受けた松平信綱は持久戦に持ち込み2月27日の総攻撃で陥落させました。

 籠城用の梅干かめが展示されています。旧藩時代、島原城の本丸に置いてあったものです。籠城用としての梅干を入れてあった「かめ」です。
籠城用の梅干かめ
 この石の水道管は島原城桜門外の水源と城内三の丸の間に敷設されていたものです。中央をくりぬいた石を漆喰で接合してあります。
石の水道管



北村西望記念館
きたむらせいぼうきねんかん
長崎県島原市城内1−1183ー1
Tel 0957-62-4766


 日本彫塑界の巨匠で、文化勲章を受賞した郷土出身の芸術家、北村西望の米寿を祝して、代表作60点を展示した他に類のない彫塑芸術の施設です。
 明治17年(1884)12月16日、旧名家であった北村家の4男として本町の白木野に生まれました。京都市立美術学校(現在の京都市立芸術大学)、東京美術学校(現在の東京芸術大学)を主席で卒業後、建畠大夢・池田勇八らと彫刻の研究会「八手会」を結成して彫刻の道を歩みました。大正6年(1917)、文展に出品した「光にうたれる悪魔」で知られるようになり、昭和13年(1938)には国会議事堂内に設置してある「板垣退助翁」像も制作しました。
 北村西望は「長崎平和祈念像」の作者として有名です。その平和祈念像の制作原形をはじめ、代表作約60点あまりの作品が展示されています。3階の展示室には愛用の諸道具をはじめ、硯や筆なども展示しています。
 昭和51年(1976)には、宮中に「天馬」を献納するなど、数々の作品を制作した。
 昭和62年(1987)3月4日他界しました。104才の大往生でした。



観光復興記念館
かんこうふっこうきねんかん
長崎県島原市城内1ー1182
Tel 0957-64-7371


 観光復興記念館は島原城に併設されています。平成2年11月に始まった雲仙普賢岳の火山活動の経過を中心に、島原の歴史や文化を紹介する資料館です。
 展示ホールでは普賢岳の噴火年表や火砕流のしくみをシミュレーションで紹介しています。火砕流で焼けた電柱やバイク、ガードレールの一部なども展示されています。映像ホールでは200インチのワイドスクリーンで、噴火活動の経緯などを上映しています。



雲仙岳災害記念館
がまだすドーム
うんぜんだけさいがいきねんかん
長崎県島原市平成町1ー1
Tel 0957-65-5555


 島原半島の火山観光の拠点となる「雲仙岳災害記念館」通称「がまだすドーム」が平成14年(2002)7月1日オープンしました。
 平成2年(1990)11月に始まった平成の噴火。そして、平成8年(1996)6月の噴火終息宣言まで、この地で何が起き、何が残ったのか。火山のすべてを体験できる、世界で唯一の場所として、自然の脅威と、災害の教訓を、風化させることなく正確に後世に伝えるための施設です。 
 記念館では普賢岳の火山活動のしくみや歴史、復興対策が最新の装置や模型を駆使して分かりやすく紹介されています。
 中でも「平成噴火シアター」で、火砕流や土石流を疑似体験した入場者は一様に緊張した面持ちで退場してきます。
 火砕流のスピードを、光の流れによって見ることが できる「火砕流の道」や、大火砕流で消失した北上木場地区の風景を再現したコーナーも入館者の関心を集めています。



武家屋敷跡
ぶけやしきあと
長崎県島原市下の丁
Tel 0957-63-1111


 島原城の北西の鉄砲丁に保存されている扶持(ふち)取り70石以下の下級武士の屋敷跡です。山本邸、篠塚邸、島田邸などが一般公開されていて無料で中を垣間見ることができます。
 苔むした土塀と石塀が続き、約400mに渡って家並みが続いています。道路中央にある水路はかつて飲料水用に造られた用水路で、当時の名残りを残した熊野神社を水源とする清流が今も流れています。
 島原城ができた当時から一軒一軒の屋敷には境界の塀がなく、隣の家の奥まで丸見えになっていたそうです。鉄砲の筒の中を覗いたようだというので「鉄砲丁「という名前ができとといわれています。



原城址
はらじょうし
長崎県南島原市南有馬町乙


 原城址は明応5年(1496)、東肥前までも勢力を延ばし当時26万石ともいわれた領主・有馬貴純(8代目)によって築かれたといわれ、周囲4キロの三方を有明海に囲まれ難攻不落の天然の要害でした。
 城構えは本丸、二ノ丸、三ノ丸、天草丸、出丸などからなり、別名「日暮城」とも呼ばれた美しい城でした。有馬晴純の代の時は全盛時代となりました。
 有馬義直時代には義直が家臣ともども洗礼をうけ、キリシタンとなりました。このため領民も次々と改宗し、領内の寺社は教会へとかえられていきました。その頃、佐賀の龍造寺により再三侵略されました。島津氏の救援で島原沖田畷にて勝利することが出き、島原半島の南部をかろうじて維持していました。
 義直の子、晴信は一旦キリシタン禁圧策をとりましたが、軍事的な理由でキリシタン保護策に変えました。有馬支配下の大多数の領民がキリシタンになりました。仏教徒は弾圧をうけ、寺社はことごとく破壊されたそうです。晴信は慶長17年(1612)に岡本大八事件に連座し配流・切腹となってしまいました。

岡本大八事件
 晴信は、有馬家父祖の代に領していた肥前杵島、藤津、彼杵の3郡が以前龍造寺氏に奪われその後鍋島氏の領地となっていたのをとりもどしたいとの野望を持っていました。本多正純の家臣、岡本大八はポルトガル船撃沈と長崎奉行暗殺実行で願いを聞き入れると密約しました。
 本多正純に旧領地の下賜について伺いをたてたところ幕府はそんな約束などしていないことが分かりました。長崎奉行を暗殺しようとするとは不届至極として大八は火刑にされました。晴信も領主としてあるまじき行為であると閉門謹慎を命ぜられ、後に切腹させられました。これが岡本大八事件というものです。

 岡本大八事件の後、一時有馬領は没収されました。その後、家康の命により、嫡子直純に有馬領四万石が下賜されました。父が切腹されたにも拘わらず14代城主となれたのは異例のことでした。15歳の時から側近として仕えていたことと、家康の曾孫国姫を妻にしていたことから許されたようです。
 直純は家督相続は許されたものの、藩内でキリスト教を取り締まるよう厳命されました。その直純も2年後には宮崎に転封になってしまいました。
 その後、元和2年(1616)大和五条より松倉重政が入封、一国一城の令によって島原城(森岳城)を築城したので、日之江・原城は廃城となりました。松倉氏は更に過酷なキリスト教追放政策を実施しました。寛永14年(1637)、この廃城となっていた原城に一揆の人々が籠城しました。「島原の乱」の舞台になったのです。

 天草四郎は小西行長の家臣益田甚兵衛好次の子で本名は益田四郎時貞です。島原の乱では若干15歳という若さで一揆軍の総大将として幕府軍と対戦しました。88日間原城で籠城しましたが圧倒的な幕府軍勢力の総攻撃で落城しました。本丸で斬首され長崎で晒し首にされました。
天草四郎時貞墓碑


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