×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

直線上に配置

更新日:  



あなたは

番目の訪問者です
(ogino作成共通カウント)



旅と歴史ホームページ

OGIさんのHP

信州上田ホームページ

信州長野ホームページ

真田一族のホームページ

Mr.ogino旅ホームページ

上田の旅と歴史HP

信州の旅HP

日本の旅

世界の旅HP



日本の旅
九州の旅          宮崎

飫肥城
おびじょう
宮崎県日南市飫肥10ー1


 飫肥城大手門です。明治2年(1869)当主伊東氏が大手門前の豫章館に移り、明治6年(1873)には、飫肥城内の建物全てが取り壊されてしまいました。
飫肥城大手門
 この大手門は昭和53年(1978)6月に樹齢100年の飫肥杉を使用して復元されました。釘を一切使用せず作られているそうです。
 復元に際しては当時の城郭研究の第一人者であった故藤岡通夫博士に設計、監修を依頼して造ったそうです。復元工事中に、礎石に正徳3年(1713)の碑文が発見されています。
 復元された大手門の高さは12.3mだそうです。NHK朝の連続テレビ小説「わかば」(第71作目)では高原若葉と藤倉雅也が谷準一と会ったロケ地になっていました。
 飫肥城は飫肥の町の北側、酒谷川と山川を臨む海抜60mほどの丘に建っています。康安2年(1362)、砦程度のここに反乱兵士が立てこもりこの地方の豪族土持頼宣が平定したそうです。
 鎌倉時代、工藤祐経が源頼朝より日向の地頭職に任ぜられました。それ以来日向の国主として支配してきました。6代目の伊東祐持は足利尊氏より都於郡に三百町の領地をもらい都於郡城を築いたのでした。
 長禄2年(1458)、薩摩の島津氏は伊東氏の南下に備え飫肥城を築き、志布志城の新納忠統を守備に当らせました。文明16年(1484)、伊東祐国が都於郡城から飫肥に出陣し攻略しました。
 しかしすぐに城は島津氏に奪回されました。伊東祐国は何回も飫肥城を攻めましたが攻略できず逆に戦死してしまいました。
 伊東祐国の子尹祐と島津忠国は和睦しましたが尹祐の子義祐は飫肥城を攻め島津氏との間で奪回が繰り返されました。永禄11年には義祐の次男祐兵(すけたけ)が城主になっています。
 島津の家督を継いだ義久が反撃を開始しました。元亀3年(1572)の木崎原の合戦で勝利を収め高原城を奪い、野尻城を手中にしました。天正5年(1577)、都於郡城をも陥れ、伊東氏は豊後に逃れたのでした。
飫肥城歴史資料館
 天正10年(1582)に本能寺の変が起き信長に代わり羽柴秀吉の天下になりつつありました。天正15年(1587)、九州討伐で島津氏が降伏し、翌年南九州の国割が行なわれ伊東祐兵は秀吉より再び飫肥の地を拝領したのでした。
飫肥城歴史資料館

飫肥城の旧本丸跡
  城下の形成は、祐兵が5万1千石で入城して本格的な建設がなされました。今でも、江戸時代初期の絵図に描かれた街路がそのまま使用されているのです。
飫肥城旧本丸跡
  伊東祐兵以後、明治初期まで280年間、伊東家は14代にわたって飫肥藩を治め続けたのです。飫肥城の旧本丸跡は元禄6年(1693)本丸ができるまで藩主の御殿でした。地震による地割れで移転されたそうです。
飫肥城旧本丸跡

松尾の丸
 松尾の丸は江戸時代初期の書院造りの御殿として、時代考証のうえ昭和54年(1979)に建築されました。飫肥城跡にある城の建物はこの松尾の丸と大手門だけです。
松尾の丸
  松尾の丸の中に展示されている川御座船(かわござぶね)と呼ばれる船の模型です。御座の間、茶室、御寝所、湯殿、台所、御蔵などの部屋があります。
松尾の丸
 建物は綿密な時代考証を重ねて当時の建物を検証し江戸時代初期の書院造りの御殿を精巧に再現しています。湯殿は、国宝である西本願寺の飛雲閣のものを模した柿(こけら)葺(ふ)き総桧(ひのき)造りです。
松尾の丸

飫肥の四半的場(しはんまとば)
 四半的射は飫肥に伝わる半弓で、射場から的まで4間半、弓矢ともに四尺五寸、的が四寸五分で、すべて四半であることから四半的とよばれています。
 永禄11年(1568)、伊東義祐は島津忠親のたてこもる飫肥城を攻撃しました。この戦いの際に馬引、人足、附近の農民が竹作りの即製の半弓を持って参戦し伊東方の勝利に大きく貢献したそうです。
 その後伊東藩内においては、この合戦の功績により一般、農民に娯楽用として弓矢を持つことを許可するようになったと言い伝えられているのです。
 NHK朝の連続テレビ小説「わかば」では高原若葉と藤倉雅也が矢を放った体験場として登場しました。



飫肥城歴史資料館
おびじょうれきししりょうかん
宮崎県日南市飫肥10ー1ー2


 飫肥城歴史資料館には飫肥藩主伊東家が残した文化財をはじめ、飫肥の歴史を伝える文化遺産など約230点が展示されています。昭和53年(1978)7月に開館しています。
 262平方メートルの館内には伊東祐兵(すけたけ)や山田匡得の甲冑や刀匠井上真改の刀などが展示されています。
 伊東家は藤原氏南家の子孫で、800年続いた由緒ある家柄です。奥方たちの小袖や打ち掛けなども由緒ある歴史を感じさせます。



豫章館
よしょうかん
宮崎県日南市飫肥9ー1ー1


 豫章館の名は邸内にあった樹齢数百年という大楠にちなんで付けられたそうです。クスは樟とも書かれるのだそうです。
 豫章館は飫肥第14代藩主の伊東祐帰(すけより)が飫肥城から移り住んだ屋敷です。昭和58年(1983)に伊藤家より日南市に寄付された建物です。
 主屋は明治元年(1868)に建てられました。この建物は飫肥杉材で造られています。日南市近郊の樹齢100年もの杉です。強くて美しい建築材です。
 飫肥藩武家屋敷の典型的な形式で、その中でも最も格式の高い建物だそうです。
 この地は伊東家の家臣伊東主水(もんど)の屋敷だったそうです。明治2年(1869)、伊東祐帰が飫肥藩知事に任命されここに住むようになったのです。
 広い屋敷に主屋や御数奇屋・雑舎・蔵を配し、入口には薬医門を構えています。
 南側には愛宕山を借景した枯木水の庭園があります。武学流の作庭といわれる庭園で、広い空間に庭石や石灯籠、庭木などが巧みに配置されています。


 規模と手入れの良さでは九州でも有数のものです。奧に佇む御数寄屋(おすきや)の周りには竹林が配されていました。
御数寄屋(おすきや)



小村記念館
こむらきねんかん
宮崎県日南市飫肥4ー2ー20ー1


 国際交流センター小村記念館は日南市飫肥(おび)出身の明治の外交宮・小村寿太郎の没後80年を記念して、平成5年(1993)にオープンした記念館です。小村寿太郎の生い立ちから業績までを紹介しています。
 20世紀初頭、外務大臣として日英同盟を結び、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約締結の際には日本側の全権大使として活躍しました。
 また、不平等条約を改正して関税自主権をも獲得しました。この功績で日本は名実ともに独立主権国家となったのです。
 20歳でハーバード大学に入学、帰国後大阪裁判所に勤めた後、外務省に入省。明治34年(1901)、46歳で外務大臣に就任、明治38年(1905)9月5日に日露講和条約をアメリカのニューハンプシャー州ポーツマス市で調印しました。
 日露戦争は戦局が泥沼化しアメリカの仲介で講和会議になったため、勝敗が決していない状況での講和会議開催という難しいところでした。
 講和成立後は、樺太北部と償金の放棄という講和条件に反対して国内で大暴動が起こりました。
 小村記念館の前庭にNHKの連続テレビ小説「わかば」日南ロケを記念してさざんかが記念植樹されています。若葉の伯母役の斉藤慶子さんが植えたそうです。



旧伊東祐正家住宅
 日南市飫肥重要伝統的建築物群保存地区の指定物件になっている旧伊東祐正家住宅です。現在の建物は明治初期の火災後建てられたものですが江戸時代の武家屋敷の様式をよく残しています。



旧山本猪平家
きゅうやまもといへいけ
宮崎県日南市飫肥5ー2ー26


 旧山本猪平家は飫肥の豪商であった山本猪平が明治40年(1907)頃に建築した商家の本宅です。敷地面積1100平方mの中に主屋、離れ屋などが当時のまま保存されています。
 隣接する小村寿太郎の父親である小村寛が飫肥商社事件で没落したため土地を買い取り新築したのです。



小村寿太郎生誕の地
 山本猪平の隣に大きな記念石碑があります。ここが小村寿太郎生誕の地なのです。碑面は東郷平八郎の書によるものだそうです。



飫肥城下町武家屋敷通
 飫肥城下町には今なお当時の城下町の地割と歴史的景観が残されています。苔むす石垣や風雅な武家門などが並んでいて城下町飫肥の象徴となっています。



飫肥城下町
おびじょうかまち
宮崎県日南市飫肥


 飫肥城下町には今なお当時の城下町の地割と歴史的景観が残されています。苔むす石垣や風雅な武家門などが並んでいて城下町飫肥の象徴となっています。
 本町と大手門を結ぶ通りの中間に位置する掘割には、錦鯉などか遊泳しています。
 飫肥城下町は碁盤目型の屋敷割りとなっており、それに沿った水路はかつては防火用水家庭用雑水などに使われていたそうです。
 昭和53年(1978)の飫肥城復元に伴ない鯉を放流したそうです。約100mの区間に300匹のコイが泳ぎ、観光の目玉になっています。



商家資料館
しょうかしりょうかん
宮崎県日南市飫肥8−1−9


 商家資料館は飫肥城下の商人町の代表的な建物である妹尾金物店を移築復元して商人の生活道具を展示しています。
 建物は明治3年(1870)に当時の山林地主の山本五兵衛が建てたものだそうです。
 木造一部2階建ての白漆喰壁の土蔵造りで、樹齢200年以上の飫肥杉を使った豪壮な建物です。
 商家資料館の位置する本町通りは、飫肥城下町の商人通として栄えた所で江戸時代から昭和初期にかけて、商人町として、飫肥杉を取り扱う材木商が栄えていました。
 当時の帳場も復元されています。江戸時代の商家及び商人達が使用していた道具約250点を展示しています。
 天秤やそろばんなどの商売道具や運搬に使った自転車なども展示されていました。



鵜戸神宮
うどじんぐう
宮崎県日南市宮浦3232


 国定公園日南海岸の風光明媚な所、日南市鵜戸の日向灘に面した景勝地に鵜戸神宮は建っています。
 創建は、第10代崇神天皇の時と伝えられ、第50代桓武天皇の延暦元年には、天台宗の僧、光喜坊快久が、勅命によって当山初代別当となり、神殿を再興し、同時に寺院を建立したそうです。「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」という勅号だったそうです。
 その後真言宗に変わり、洞内本宮の外、本堂には六観音を安置し、一時は西の高野とうたわれ、両部神道の一大道場として隆盛を極めたようです。
 明治維新後、鵜戸神社となり、後に官幣大社鵜戸神宮に昇格しました。安産、夫婦和合、育児、漁業、航海 そして 縁結びの神として全国に知られています。地元では親しみを込めて「鵜戸さん」とよんでいます。
 この神橋は鵜戸の反橋(そりはし)といわれ、ここを渡ると本殿にいたる急な石段が続きます。
 かっては橋の手前から履物を脱ぎ、はだしでお参りしたそうです。古来よりこれより先は尊い神域、霊場になり深い信仰を集めていました。
 山幸彦(彦火火出見尊)が、兄(海幸彦)の釣り針を探しに海宮(龍宮)に行き、海神のむすめ豊玉姫命と深い契りを結んだそうです。
 山幸彦が海宮から帰られた後、身重の豊玉姫命は「天孫の御子を海原で生むことは出来ない」とこの鵜戸の地にこられ霊窟に急いで産殿を造りました。
 屋根の鵜の羽の茅も葺き合わぬうちに御子(御祭神)が誕生されました。そのため「ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと」とつけたそうです。今日では通称「ウガヤフキアエズノミコト」(鵜葦草葦不合命)といわれています。
 洞窟の中に建てられた優美な鵜戸神宮本殿です。神殿に鎮まるのはこの洞窟で生まれたウガヤフキアエズノミコトです。神武天皇の父君でもあるのです。
 昔、七浦七峠と呼ばれる険しい道を、花嫁を馬にのせ、花婿が手綱をとって、鵜戸さんに参拝して結婚の報告と幸せを祈願したそうです。
 宮崎周辺の農家の風習であったといわれているこの鵜戸さん詣りは江戸時代の中期から明治中頃まで行われていたといわれています。馬の首にかけられた鈴が「シャンシャン」なることから「シャンシャン馬」の風習として有名です。


御乳岩(おちちいわ)
 竜宮に帰った母君の豊玉姫(トヨタマヒメ)がウガヤフキアエズノミコトのために、乳房を残していったと伝えられる「おちちいわ」です。

 本殿の裏手にあります。洞窟の奥で天井が低くなっているところに、ちょっとした膨らみがあります。そこから水の雫が落ちているのです。
 このお乳水を飲むこともできます。すぐとなりに産湯の跡もあります。「おちちあめ」はお湯に溶かして飲む、水飴状のもので鵜戸の名産です。


鵜戸神宮の運玉
 豊玉姫が竜宮から乗ってきたといわれる亀岩の背中に運玉とよばれる直径2cm程の素焼きの玉を投げ、見事に背中に当れば願いごとが叶うそうです。
  男性は左手、女性は右手で投げます。これは陰陽思想から出てくるものらしく男性は陽、火なので左手、女性は陰、水なので右手ということです。正月三が日は20万個もの運玉が投げ込まれるそうです。
霊石亀岩



日南フェニックスロード
宮崎県日南市


 宮崎市街から都井岬へ至る道路は「日南フェニックスロード」という愛称が付けられています。眼下に広がる太平洋と波状岩、沿道のフェニックスなどの亜熱帯植物が南国ムードをかもし出しています。
 日南海岸周辺は、日本ではじめてのロードパーク(道路公園)の構想の元、整備されました。日本の道100選にも選ばれています。
 日南海岸国定公園は青島付近から鹿児島県志布志町までの約140kmです。昭和30年(1955)に指定されたので50年以上になります。堀切峠あたりは南国の太陽に輝く群青の太平洋、眼下には一面の波状岩を黒潮が洗う、日南海岸随一の雄大な景観です。



サンメッセ日南
さんめっせにちなん
 宮崎県日南市宮浦2650


 サンメッセ日南は平成8年(1996)4月13日にオープンした観光地です。太陽の丘・天空の塔など、地球の壮大さを感じられるスポットです。園内には世界七不思議の一つイースター島のモアイ像が忠実に再現されています。
  モアイはチリ領イースター島にある人面を模した石造彫刻のことです。大きさは3.5m、重量20トンぐらいのものが中心ですが最大級のものは20m、重量90トンもあるそうです。

 モアイが向いている先には、「モアイ」像の故郷イースター島があるそうです。島に住む人々は今でも本来の呼び名であるラパ・ヌイと呼んでいるそうです。

 享保7年(1722)、オランダ人提督ヤコブ・ロッゲフェーンがキリスト教のイースターの日に西欧人として初めてこの島に上陸しました。そのためこの島はイースター島と呼ばれました。
 モアイの「モ」は未来、「アイ」は生きる、すなわち「未来に生きる」という意味だそうです。日本のモアイ修復チームの功績に感謝する証として、イースター島を司っている長老会がモアイを日本で復元することを許可したのだそうです。
 モアイのカラクリ時計です。15分おきにモアイ像の口が開いて人形が出てきます。ここサンメッセ日南は元々は牧場でした。現在でも牛が放牧されています。



青島
あおしま
宮崎県宮崎市青島2


 青島は周囲2km弱の亜熱帯性植物が生い茂る小さな無人島です。古くは淡島・歯孕の浮島とも称されました。空前の観光ブームに湧いた時代には新婚旅行先として、宮崎の象徴としての青島がありました。
 本土からはやよい橋を歩いて渡ることができます。この小さな島には樹齢300年を超えるビロウ樹やハマカズラ等、熱帯亜熱帯植物をはじめ多くの植物があり、昭和27年(1952)、国の特別天然記念物に指定されました。
 本島の植物の中で特殊な熱帯および亜熱帯植物として「青島熱帯性植物産地」として大正10年(1921)天然記念物に指定されました。現在は「青島亜熱帯性植物群落」に改称されています。
 周囲は約1千万年から800万年前の地層の硬さの違う砂岩と泥岩による侵食により独特な形状へ変化した岩で囲まれています。
 まさしく奇岩で、その形状が洗濯板に似ている事から 「鬼の洗濯板」(鬼の洗濯岩)と呼ばれています。島からのぞむこの奇形は雄大な時間の産物なのです。
 干潮の際には沖合い100mにも及ぶ見事な景観となるそうです。島の裏側には遊歩道があり、ここをビロウ樹を眺めながら歩くことができます。
 青島海水浴場です。「太陽とあそぼう 日本一きれいな海水浴場」をキャッチフレーズに過去3年間連続水質AA判定を維持しています。
 環境省の日本の水浴場88選にも選ばれています。



青島神社
あおしまじんじゃ
宮崎県宮崎市青島2−13−1
 島の南中央にある青島神社は 日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)、后の豊玉姫命、塩椎神(塩椎老翁)を祀る神社です。
 日子穂穂手見命は山幸彦として親しまれており、「海幸彦 山幸彦」の神話はここ青島海岸が舞台なのです。
 兄「海幸彦」と弟「山幸彦」は木花神社の近くで生まれ、兄は海のものを取り、弟は山のものを取って暮らしていました。山幸彦は「たまには交代してみたい。どうか道具をかしてほしい」と海幸彦に頼んで一日漁師になってみたそうです。
  ところが兄が宝としていた釣針を魚に取られて無くしてしまいました。兄は怒り、どうしても許してくれませんでした。塩椎神に相談すると綿津見大神(海の神)の宮へ行けとアドバイスされました。
 訪ねた宮で山幸彦は、綿津見大神の娘、豊玉姫と結ばれて3年の間過ごしたそうです。無くした釣り針の事を思い出した山幸彦がしきりにため息をつくようになったので海神はたくさんの魚の中から釣り針を飲み込んだ魚を探し出し、それを清めて山幸彦に渡したそうです。
 海神は「塩盈珠」「塩乾珠」という水を操る二つの珠も合わせて授けたそうです。海幸彦に釣針を返した後、海神の教えのごとく田を作ると大量の収穫があり山幸彦は裕福になりました。それを恨んだ海幸彦が攻めてきましたが2つの珠を使って服従を誓わせたそうです。
 青島神社の御神木である雀榕(あこう)です。
 クワ科イチジク属の木で台湾や東南アジアのどの亜熱帯地方に分布する常緑高木樹です。
 「親孝行の木」といわれ一年に数度芽吹き一斉に散ることから「命の再生」の象徴でその葉を持ち帰る人も多いそうです。



青島亜熱帯植物園
あおしまあねったいしょくぶつえん
宮崎県宮崎市青島2ー12ー1


 青島亜熱帯植物園は青島を眼前に望む海浜に位置する植物園で昭和42年(1967)に開園しました。宮崎県のMと波状岩をあらわした大温室は幅47m、奥行22m、高さ16mで中心的な施設になっています。
  日南海岸国定公園の青島に自生する特別天然記念物「ビロウ」の群落を見ることができる植物園として有名です。
 園内にはビロウのほか県木のフェニックス、女王ヤシ、アコウ、パラボラチョ、ジャカランダ等が植栽され、南国特有のランタナや各種のハイビスカスなどが四季を通じて咲き誇っています。
 トックリヤシ、大王ヤシなどのヤシ類をはじめ、トロピカルフルーツ、洋ランなど約430種2500本を有する大温室も南国ムード満点です。世界的に有名なシンガポール植物園とは姉妹植物園になっているそうです。



こどものくに
宮崎県宮崎市大字加江田7275−1


 こどものくには紺碧の日向灘を眼前にのぞむ、面積17万uの広大な遊園地です。自然の丘や谷、川の地形に沿って750種13万5千本の亜熱帯植物が群生しています。
 バラ園、ツバキ園、ルビー園では、四季折々の花々が楽しめます。園内には、孔雀鳩、白鳥、インコ、リスなどが放し飼いになっています。
 開園したのは昭和14年(1939)と歴史があります。平成7年(1995)にはこどものくにを会場に「みやざきフラワーフェスタ」が開催されました。入園も無料になりました。



サンマリンスタジアム
宮崎県宮崎市大字熊野


 サンマリンスタジアムは太陽と海と緑に囲まれた総天然芝のスタジアムで3万人収容できます。完成したのは平成13年(2001)だそうです。「サンマリン」 と命名をしたのは長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督だそうです。宮崎県総合運動公園は 日本の都市公園百選にも選ばれています。



きよたけ歴史館
きよたけれきしかん
宮崎県清武町加納甲


 ここは、平成14年(2002)の安井息軒の命日にあたる9月23日にオープンしました。安井息軒展示室を中心に、考古展示室や図書資料室、展望室等を配しています。
 この場所は安井息軒の父滄洲(そうしゅう)の尽力により藩校に先駆けて創建された郷校「明教堂」の跡地です。本町文教発祥の地でもあるのです。



安井息軒旧宅
やすいそっけんきゅうたく
宮崎県清武町大字加納甲3368


 この場所は幕末の偉大な儒学者安井息軒の旧宅です。息軒は寛政11年(1799)学問所で子弟の教育に当っていた安井滄洲(そうしゅう)の次男としてこの旧宅で生まれたのです。
 字は仲平といい、息軒はその号の一つです。幼い頃から貧しい家計を助けながら学問に傾倒し、22才から29才まで大阪、江戸で苦学し帰郷後、創建された郷校「明教堂」で父とともに近郊子弟の教育にあたりました。
 「一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり。」という考えのもと、多くの人材を育てたそうです。森鴎外著「安井夫人」で紹介した川添佐代と結婚しました。



安井息軒廟
やすいそっけんびょう
宮崎県清武町加納甲


 生涯を学問に捧げた 郷土の偉人、安井息軒の廟です。先人廟に合祀されていた安井息軒のさらなる顕彰を目的として、平成6年(1994)に町内外有志によって建立されました。



宮崎市
 宮崎市の名前の由来は、神武天皇の宮居があったことに由来するそうです。「みや」は、敬称による貴人の住居、「御家」であり、「宮」のことを指し、「さき」は、物の前側になる所を意味するそうです。
 「みやざき」は、宮の先、宮の前、宮のあたり、宮の所在地という意味になり、そこからついた地名だそうです。温暖な気候風土に恵まれ、まさに「太陽と緑」というにふさわしい南国色豊かな都市です。
 天正15年(1587)秀吉によって九州は統一され宮崎は延岡藩の所領となりました。江戸時代に入り一国一城の令により宮崎城は廃され、諸藩の勢力が交錯するところでした。
 城下町でもなく、基盤となる集落もないところが現在のような大都市に生まれ変わったのは県庁が建てられたからだといわれています。
 それとともに当時の政策で、主に四国から移住してきた人たちが、現在の繁華街の基礎を造ったそうです。現在、宮崎市を訪れる観光客は年間600万人を超えており、「国際観光リゾート都市」資質も備えています。



宮崎神宮
みやざきじんぐう
宮崎県宮崎市神宮2−4−1


 宮崎神宮は初代の神武天皇を祀る神社です。深い森に守られた歴史を秘めた神宮です。古くは神武天皇社と呼ばれていたそうです。
 旧官幣大社でした。神武天皇を祭神とし、左の相殿に父ウガヤフキアエズノミコト、右の相殿に母タマヨリヒメをお祀りしてあります。
 現在の社殿は明治39年の造営で、狭野杉で造営された流れ造りの清楚な社殿です。材料は全部県産の狭野杉だそうです。
 白木造りの神殿は、楠・杉の森に囲まれていて荘厳なたたずまいになっています。土産品店や屋台が立ち並ぶことなく、広大な緑の森に囲まれ清らかですがすがしく格式と歴史を感じる社です。
 ここは神武天皇の東征以前、都がおかれていたようです。神武天皇の皇子神八井耳(かむやいみみ)命の子、建磐竜(たけいわたつ)命が筑紫の鎮守となられた折、この地に天皇を祀ったのが始まりといわれています。
 後世後鳥羽天皇の時代の建久8年(1197)には地頭の土持太郎信綱が社殿を造営したようです。そして正保元年(1644)、文化10年(1813)、天保10年(1839)に造営改築されています。
  明治6年(1873)5月宮崎神社と改称されて県社になっています。明治11年(1878)宮崎宮と改められ、明治18年(1885)官幣大社に昇格しました。大正2年(1913)宮崎神宮と改められました。
 毎年10月下旬ごろには「神武さま」の名で親しまれている「宮崎神宮大祭」が行なわれます。神賑(しんしん)行列は宮崎神宮を出発し、瀬頭御旅所まで、ゆったりとしたペースで練り歩く祭りです。この行列には鵜戸さん詣りで記述したシャンシャン馬も花をそえ、宮崎の秋の風物詩となっているそうです。



宮崎県総合博物館
みやざきけんそうごうはくぶつかん
宮崎県宮崎市神宮2−4−4


 宮崎県総合博物館では宮崎の自然史と歴史民俗を体験、探求することができます。母体は昭和26年(1951)に設置された県立博物館でした。昭和46年(1971)に自然美術を加えた総合博物館として開館したそうです。
 自然史展示室では、宮崎県を代表する照葉樹の森を中心に、水辺や海の自然、動植物の生態をガラス張りの床下から天井までを使ったジオラマで再現してリアルに展示しています。
 民俗展示室には民俗資料の宝庫である椎葉村などから集められた宮崎ならではの貴重な展示がされています。
 平成10年(1998)にリニューアルオープンして展示資料の他、シアターやAV機器が多数設置され、検索や映像などが楽しめるようになりました。また、「みんなの情報室」には、図書類や映像資料、標本等が置いてあり、無料で利用できます。


民家園
 宮崎県指定有形文化財の米良の民家です。西米良村にあった黒木家住宅を移築復元しています。文政4年(1821)頃の建築です。
 この民家は山間の三段石積みの上に建てられていたもので、外観、間取りなど古い西米良の農家の形が残されています。
 国指定重要文化財の旧藤田家住宅です。九州山地中央部に残る民家の古い形式を伝える数少ない建物です。
 宮崎県北西部の五ヶ瀬町から移築復元した物です。間取りは「オモテ」と「ヘンヤ」の二つからなっていて天明7年(1787)に建てられたということです。
 刳貫式石棺(くりぬきしきけっかん)です。古墳時代のもので延岡市小野から出土しました。
 箱式石棺(はこしきせっかん)です。延岡市樫山から出土しています。板状の石を箱形に組んで棺の身と蓋を造る石棺です。



平和台公園
へいわだいこうえん
宮崎県宮崎市下北方町


 宮崎市の北西標高60mの丘陵地に位置する「平和台公園」から遠く日向灘や宮崎市を一望できます。皇紀2600年の記念事業として、昭和14年(1939)5月20日着工し昭和15年11月15日竣工した高さ37mの平和の塔があります。
 秩父宮殿下の真筆による「八紘一宇」(はっこういちう)の文字が刻まれ、かつては八紘台と呼ばれましたが、戦後は平和台と改められました。塔を製作した日名子実三氏は昭和13年秋頃より約2ヶ月間、宮崎県下の高千穂、美々津、西都原等を見て回り、構想を得たそうです。終戦の昭和20年(1945)8月にはその精神が戦争目的に利用されたとして削除されましたが現在は復元されています。



綾城
あやじょう
宮崎県東諸県郡綾町北俣1012


 綾町の歴史は非常に古く、中央台地の尾立地区には縄文遺跡があります。古墳時代には、大工園古墳、四反 田古墳、王ノ塚古墳などが作られました。
 康保4年(967)の律令の延喜式には日向 16駅の1つに亜椰(綾)駅と記されています。奈良時代には既に宮崎から熊本に通じる要衝として 栄えていたようです。
 鎌倉幕府が開かれて間もない建久8年(1197)には伊東氏が日向の地頭 となり、綾を含む宮崎平野一帯を所領しました。
 綾郷の最初の領主となったのは、鎌倉時代末の元弘年間(1331〜1334)にこの地に下向した足利尊氏の家臣細川小四郎義門です。
 その子義遠は、収納使として、綾を領有し、綾氏と称しました。綾町のシンボルでもある綾城は、ちょうどこのころ建てられたものです。
 この綾城は当時の城をそのままでなく日本城郭協会の時代考証に基づき戦国時代初期の山城として造られました。すべて綾産の木を使用して日本最古の山城を再現したのです。
 綾氏は数代に渡り城主としてこの地方を治めていましたが、室町時代8代将軍義政の頃、 都於郡城を根拠として日向の国の一大豪族となった伊東氏の家臣となりま した。伊東氏48城のひとつとなり島津氏と戦う重要拠点となったのでした。
 都於郡城主伊東義祐は野尻城主などの謀反により島津に追われる身となりました。綾城主佐土原遠江守は天正5年(1577)、義祐を城内に迎え入れました。
 佐土原遠江守と田中国広は島津の追手から身を守る算段をととのえて、その策を義祐に進言したのでした。その様子を綾城内で再現しています。
 伊東氏は元亀3年(1572)の木崎原の戦いで敗れ、天正6年(1578)の戦史に残る耳川の戦 いにも敗れて豊後に落ちました。綾郷の人々は、最後の一戦まで伊東を見捨てず戦ったそうです。
 天正5年(1577)に綾郷は島津氏の支配下におかれることになります。そしてこの島津氏の統治は、明治維新を迎えるまで続きました。
 田中国広の一番弟子の国路の刀です。安土桃山時代のもので国の重要文化財に指定されています。 
 「綾式土器」です。紋様帯が広いことや貝殻で模様をつけている特徴があります。大正のはじめに発見された尾立(おだて)遺跡から出土されました。
 綾陽校記念館です。明治21年(1888)に建築された綾小学校の校舎を当時のままの姿で移転して保存しています。
 刀工、田中国広の像です。新刀の開祖といわれている人です。綾町古屋に生まれ、父、旅泊の元で鍛刀に励みました。



綾・国際クラフトの城
あや・こくさいくらふとのしろ
宮崎県東諸県郡綾町北俣


 昭和61年(1986)に綾城内に工芸家が集うクラフトの町がつくられました。綾は古くから養蚕で知られた地で工芸が盛んでした。
 町の工房の作品や内外の優れた作品などを展示即売しています。織物、陶芸、染色などの体験実習なども受け付けています。



照葉大吊橋
てるはおおつりはし
宮崎県東諸県郡綾町南俣5691−1


 照葉大吊橋は綾南川の渓谷を渡る、長さ250m、幅約1m、水面からの高さ142mというスケールの大きな遊歩吊橋です。

 日本一の長さの吊橋は茨城県水府村の龍神大吊橋で長さ375mですが、日本一の高さを誇るのがここ照葉大吊橋です。高さは142mあります。
 ここは九州中央山地国定公園に指定されています。カシ、シイ、タブ、クスなどの照葉樹(常緑広葉樹)の自然が広範囲に繁っていて、その規模は全国一です。

 照葉樹は独特の遺伝子の働きで種や萌芽から樹木が発生し、競い合いながら現在の大樹林になったようです。かつては九州山地全体を覆い、焼畑に代表される豊かな農耕文化(照葉樹林文化)をはぐくんできました。
 戦後の拡大造林などで急速に面積を縮小させられてしまいました。綾町でも伐採計画があったようですが町長はじめ多くの人のねばり強い反対で阻止したそうです。

 その結果、全国一の照葉樹林地帯が残されたのです。現在世界遺産に登録しようという市民運動も強まっているそうです。
 照葉大吊橋を渡って、緑の照葉樹林が広がる綾川渓谷の遊歩道を歩く2kmのコースもあります。照葉樹林の中を歩き、照葉大吊橋上から丁度下に見えるかじか吊橋を経由して駐車場下に出られるコースです。
 橋のたもとには、バードカービングや森に生態系を展示した「照葉樹林文化会館」があります。



シーガイヤ
宮崎県宮崎市山崎町
 宮崎の一ツ葉海岸付近の国内最大級のリゾートシティです。総面積は700haと広大で、野外ドームはじめテニス、ゴルフ、コンベンショナルセンター、温泉まで充実した設備が整っています。
 シーガイヤは日本で初めて産業再生機構を使って再建したリゾート施設です。全天候型、開閉ドーム式のウォーターパーク「オーシャンドーム」はその中心的な施設です。
オーシャンドームは1万人も収容出来るドーム状の大きなプールです。入園料も大幅に値下げして大人2千円です。大きな波で波乗りもできサーフィンの実演もしています。
 シェラトン・グランデ・オーシャンリゾートです。宮崎では唯一の高層ビルです。地上43階753室で全客室から日向灘が眺められます。



高千穂峡
たかちほきょう
宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井御塩井
 高千穂は天孫降臨の神話や伝説が息づく山里です。高さ80mから100mに及ぶ絶壁が東西におよそ20kmも続く、国の名勝、天然記念物に指定されている峡谷です。特に真名井の滝付近は100メートル近い垂直断崖で神秘的なところです。その美景から日本の滝百選にも選ばれています。



都城市
みやこのじょうし
 都城は平安時代の後期に太宰大監平季基(だざいたいげんたいらのすえもと)の開いた島津荘が始まりで鎌倉時代には日本一の大荘園だったそうです。この荘園の地頭に任じられた惟宗忠久(これむねただひさ)が荘名にちなんで姓を改めたのが島津氏の起こりです。
 今も城跡が残る都之城(みやこのしろ)は島津家11代240年間の居城で、都城の地名の由来となっています。都城市は、行政上は宮崎県ですが、文化的には薩摩島津氏の伝統文化に属する都市といってもよいでしょう。



関之尾滝
せきのおたき
宮崎県都城市関之尾町
Tel 0986-23-2111
 関之尾滝には、3つの滝があります。大滝は高さ18m、幅40mの滝で日本の滝百選に選ばれています。男滝、女滝とともに豪快に水しぶきをあげています。
 滝のすぐ上流の川床には、歐穴が約600mにわたって続いています。これは国の天然記念物です。川底の岩石を水流が回転させてできた穴なのです。
 50万年前霧島火山系から吹き出した溶岩の割れ目にはいった石や砂が長い年月の間、川の流れで削られて無数の穴になったものです。
 昔、都城城主北郷資忠公(ほんごうすけただ)がここで月見の宴をしたとき、お酌をしたお雪(おしず)は酒をこぼしてしまいそれを苦に滝つぼに身を投げ、それを嘆く恋人経幸の悲恋が残されています。


トップ アイコン旅と歴史のホームページへもどる トップ アイコン  日本のページへもどる    


直線上に配置