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日本の旅
日本の旅          熊本・阿蘇

高瀬眼鏡橋
たかせめがねばし
熊本県玉名市秋丸


 県指定重要文化財の高瀬眼鏡橋は玉名市の菊池川の裏川に架かる石橋です。周辺は「高瀬裏川水際緑地公園」 となっていて菖蒲の名所です。
 嘉永元年(1848)に高瀬町奉行である高瀬寿平らによって2連の石造アーチが造られました。長さ19m、幅4.1m、高さ7.5mで、阿蘇の灰石とよばれる阿蘇溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)という石を用いています。
 江戸時代に高瀬町は米などの農産物の集積地として繁盛しました。この石橋が架かっている川は人工の河川で裏川といい、ここから直接荷物の揚げ降ろしができるようになっていたそうです。



蓮華院誕生寺奥之院
れんげいんたんじょうじおくのいん
熊本県玉名市築地1512ー77
TEL0968-74-3533


 蓮華院誕生寺は、ここ玉名市で生まれた「皇円上人」を祀る九州別格本山です。治承元年(1177)平重盛によって創建されたそうです。蓮華院誕生寺奥之院は、皇円上人入定800年遠忌を祈念して、昭和53年(1978)に建立されました。
 奥之院の中心にある五重塔は、高さ51.5m、日本一の大きさを誇り、高さも全国で3番目の高さです。修行目的なら登ることもできます。
大梵鐘、飛竜の鐘は世界最大の大きさです。直径は9尺5寸(2.88m)、高さ15尺(4.55m)、重さ1万貫(37.5t)です。



田原坂
たばるざか
熊本県熊本市植木町豊岡


 田原坂は北西から南東に向って、一の坂、二の坂、三の坂となだらかに上がる1.5kmのゆるやかな坂です。田原坂公園として整備されツツジや桜の名所です。
 明治10年(1877)、ここ田原坂で西郷隆盛率いる薩摩軍と明治政府の官軍とが戦いました。1万人余の戦死者を出した西南戦争の最大の激戦地です。
 3月4日から17昼夜、南下して熊本城を目指す官軍小倉連隊とこれを阻止しようとする薩摩軍が一進一退の攻防を繰り返しました。抜刀斬込隊の活躍により次第に官軍の優勢になり、3月20日、薩摩軍の七本柿木台場を陥落させました。中央隊も田原坂を突破し、薩摩軍を敗走させました。
 頂上付近には戦死者の慰霊塔や征討総督有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王の崇烈碑、田原坂資料館、弾痕の家、上手に乗った少年の像などがあります。



藤崎八幡宮
ふじさきはちまんぐう
熊本県熊本市井川淵町3ー1
Tel 096-343-1543


 平将門・藤原純友の乱の時、追討と九州鎮護のために、京都の石清水寺八幡宮を勧請して建立したと伝えられています。創建されたのは承平5年(935)という由緒ある八旛宮です。もともとは熊本城内の藤崎台にありましたが、西南の役で焼失してしまいました。
 明治11年(1878)に現在の場所で再建されたということです。応神天皇・相殿に神功皇后・住吉三神を祀っています。鎧兜に身を固めた人々や神輿が練り歩く随兵行列や馬追いなどの例大祭が9月11〜15日に行われ大勢の人が集まるそうです。



本妙寺
ほんみょうじ
熊本県熊本市花園4ー13ー1
Tel 096-354-1411


 発星山本妙寺は中尾山(本妙寺山)中腹に建立されている日蓮宗六条門流のお寺で、大本山本圀寺から「六条門流九州総導師」の特別寺格を与えられています。加藤清正の菩提寺で、清正を祀る浄池廟(じょうちびょう)があります。
 巨大な仁王門はコンクリート製で、出雲大社の大鳥居などでも知られる小林徳一郎が大正時代に寄進したものです。国の登録有形文化財に登録されています。門をくぐると桜並木の長い参道が続き、両側には12の塔頭(たっちゅう)が建立し、本妙寺の大本堂(勅願道場)まで続いています。
 大本堂から先には胸突雁木(むなつきがんぎ)と呼ばれる176段の急勾配の石段があり、信者から寄進された700もの石灯籠が並んでいます。階段の先には浄池廟があります。
 本妙寺は天正13年(1585)、加藤清正の父・清忠の冥福を祈るため、日真の開山により大阪に創建されました。その後、清正が熊本城主になった後の慶長5年(1600)、熊本城下の瑞龍院に移されました。
 慶長16年(1611)に清正が没し、遺言により中尾山上の浄地廟に尊象を奉安しました。慶長19年(1614)、火災で焼失した本妙寺を浄地廟下の現在地に移転しました。明治に入り、神仏分離令により、浄池廟と本妙寺は神社と寺に分けられました。
 明治4年(1871)に社殿だけが熊本城内に移され、加藤神社となり、浄池廟の拝殿は撤去されました。その後、西南戦争で大本堂が焼失しました。明治27年(1894)大本堂と浄池廟が再建され、現在に至っています。
 境内の宝物館には、加藤清正の遺品や加藤・細川家に関する文書、書画、工芸品等、国の重要文化財を含む約1400点が収蔵、展示されています。
 加藤清正の銅像は清正を祀る浄池廟(じょうちびょう)から、さらに長い石段を登ったところに建っています。昭和10年(1935)、清正没後325年記念事業として銅像が建てられました。
 そのため長い石段も25段くぎりで300段になっています。太平洋戦争末期に金属供出で銅像は撤去されましたが、昭和35年(1960)に再建されました。ここからは眼下に美しい熊本市内が臨めます。



島田美術館
しまだびじゅつかん
熊本県熊本市島崎4ー5ー28
Tel 096-352-4597


 島田美術館は林に囲まれた静かな住宅地の中にあります。ここは宮本武蔵の研究と顕彰を続けた、故・島田真富氏のコレクションの保存と公開を目的にした私設の美術館です。
 剣聖・宮本武蔵の肖像を始め、刀、鍔、書や絵画などの遺品を常設展示(3ヶ月ごとの展示品替え)している日本でも数少ない貴重な美術館です。武芸の達人だったばかりでなく、文人としても優れた武蔵の書画や彫刻などが数多く収められています。
 武蔵は吉岡一門との戦いをはじめ、29才で佐々木小次郎と決闘する間、一度も勝負に負けたことがありませんでした。
 天下を周遊して、50才にして兵法を究め、五輪書、兵道鏡、独行道などを書き上げました。正保2年(1645)、熊本の千葉城で62才の生涯に幕を閉じ弓削の里に葬られました。



熊本城
くまもとじょう
熊本県熊本市本丸1ー1
Tel 096-352-5900


 日本三名城の一つに数えられる熊本城は、天正16年(1588)、肥後半国の領主として熊本に本拠を置いた加藤清正によって築かれました。築城は慶長6年(1601)に始まり、同12年(1607)に完成したといわれています。3つの天守閣、49の櫓、18の櫓門と29の城門を持つ堂々たる城郭です。武者返しと呼ばれる美しい曲線を描く石垣も見事です。
 戦国初期、熊本城の前身の隈本城主は菊池一族の出田(いずた)秀信でした。その後、鹿子木親員(かのこぎちかかず)が隈本を治め、城親冬(じょうちかふゆ)に代わりました。豊臣秀吉の九州平定の後は佐々成政に与えられました。肥後一国の統治に失敗した成政は切腹させられ、天正16年(1588)加藤清正が城主になりました。

 27歳の若武者、清正は、肥後国衆一揆で乱れ果てた領土を平定し、熊本市民に清正公(セイショコ)さんと今でも呼ばれ親しまれるほど偉業を成し遂げました。城下町の整備のほか、各河川の治水事業や干拓などを行い、神様としても祀られています。「隈本」が、現在の「熊本」に変わったのもこの時です。虎を退治したという朝鮮への出兵は入国4年後のだったそうです。
 加藤清正の父、清忠は美濃齋藤氏に仕える武士でした。清正は、永禄5年(1562)、尾張国愛智郡中村(現在名古屋市)に生まれ、同郷で親戚ともいわれる豊臣秀吉に仕えました。最初の戦功は天正9年(1581)の鳥取城攻めだったそうです。その後、幾多の戦で勇猛果敢に戦い武功をあげました。賤ヶ岳の戦いでは七本櫓の一人として全国に武勇を轟かせました。 
 熊本城は加藤清正以後、加藤家2代(44年)、細川家11代(239年)の居城となりました。明治10年(1877)の西南の役に際しては、薩軍を相手に50日余も籠城し、難攻不落の城として真価を発揮しました。
 しかし薩軍総攻撃の2日前、原因不明の出火と折からの強い風にあおられて大・小天守閣をはじめ多くの櫓や建物を焼失してしまいました。現在の天守閣は昭和35年(1960)、熊本市によって再建されたものです。焼け残った宇土櫓や東竹之丸の櫓群は国指定重要文化財になっています。



加藤神社
かとうじんじゃ
熊本県熊本市本丸2ー1
Tel 096-352-7316


 加藤神社は熊本城内本丸にあり加藤清正を主神とする神社です。本丸横、正面に二の丸が広がるところにあります。勝負に加藤(勝とう)にあやかって、受験生・スポーツ選手のお参りが多いそうです。
 もとは慶長16年(1611)、清正の没後に清正を祀った浄地廟でした。慶長19年(1614)、火災で焼失した本妙寺が浄地廟に移されました。神仏分離により明治元年(1868)、浄地廟の儀式を神式で行うことになりました。明治4年(1871)、浄池廟は本妙寺から分けられ、熊本城内に社殿を造営して錦山神社に遷座しました。
 明治7年(1874)、熊本城内に熊本鎮台が置かれるようになったため、城外の新堀町に遷座し、翌年県社に列格しました。明治10年(1877)2月、西南戦争により社殿は焼失し、明治17年(1884)に再建されました。明治42年(1909)に、錦山神社から加藤神社に改称され、現在に至っています。



旧細川刑部邸
きゅうほそかわぎょうぶてい
熊本県熊本市古京町3ー1
Tel 096-352-6522


 細川家最初の肥後藩主・3代忠利の弟、刑部少輔興孝が正保3年(1646)に2万5千石を与えられて興した武家屋敷です。建坪300坪を誇る邸内は当時のままに保存されており県の重要文化財にも指定されています。
 興孝は、延宝6年(1678)に子飼(現在の熊本市東子飼町)にお茶屋をつくり、後に下屋敷としました。その後元禄年間や宝永年間にも造作がおこなわれ一門としての格式を整えました。刑部家は代々「刑部」(ぎょうぶ)か「図書」(ずしょ)を名乗り、家禄1万石で活躍しました。

 建坪約300坪あり、蔵が付属した長屋門を入ると、唐破風の大玄関にいたります。ついで御客間から入側造りの表御書院、2階建の「春松閣」とつづき、1階は「銀之間」と呼ばれています。別棟は、書斎の付いた茶室「観川亭」、御宝蔵、台所があり、全国有数の上級式武家屋敷としての格式をもっています。
 明治4年(1871)熊本城に鎮西鎮台が置かれ、城内の武家屋敷は城外に移るようにとの令が発せられたことから、同六年(1873)、刑部家当主興増は子飼に移り、下屋敷を本邸としました。熊本市では、平成2年度からの「ふるさとづくり特別対策事業」により三の丸の用地を取得し4年をかけて移築復原したものです。



徳富記念館
とくとみきねんかん
熊本県熊本市大江4ー10ー33
Tel 096-362-0919


 熊本の生んだ文学者、徳富蘇峰・蘆花兄弟の資料や遺品約3000点を集めた資料館です。ここは、明治15年(1882)、蘇峰が開いた私学「大江義塾」の跡でもあります。当時の徳富旧邸も敷地内に保存されています。

 庭には大江義塾創立記念の椎の木や、蘇峰の恩師・新島城襄が贈ったアメリカ土産のカタルパの木がそびえています。



水前寺成趣園
すいぜんじじょうじゅえん
熊本県熊本市水前寺公園8ー1
Tel 096-383-0074


 水前寺成趣園は細川御歴代を祀る出水神社の敷地内に、おおよそ360年前に造られた庭園です。寛永9年(1632)、肥後の領主となった細川忠利によって築造が始められ、光尚を経て孫の綱利のときに桃山式池泉回遊庭園が完成しました。
 年中絶えることのない阿蘇の伏流水が湧きだす池を中心に、東海道五十三次になぞらえたといわれる芝山や泉水に浮かぶ小島、富士山に見立てられた築山など美しい庭が広がっています。池の中には鯉が優雅に泳いでおり、エサをあげることもできます。
 全国に知れ渡っているこの庭園は、もともと「お茶屋」と呼ばれた細川藩主の休息所でした。明治の中期熊本に滞在した夏目漱石も、たびたびここを訪れ、「しめ縄や春の水湧く水前寺」の一句を残しています。


古今伝授の間
こきんでんじゅのま
 水前寺成趣園内に建つ、茅葺きの風雅な茶室です。細川藤孝(幽斉)が慶長5年(1600)、後陽成(ごようぜい)天皇の弟宮智仁親王に「古今和歌集」の秘伝を伝えたところから、この名がついたといわれています。昭和39年(1964)には熊本県の重要文化財 に指定されました。
 この建物は、もとは京都御所にあり、長岡茶室と呼ばれていましたが、明治になって細川家に返され、大正元年(1912)現在地に再建されました。杉戸の「雲竜」は狩野永徳、襖の「竹林の七賢」は海北友松の作と伝えられています。  
 古今和歌集は紀貫之ら4人の選者による、日本初の勅撰和歌集です。平安時代、和歌を研究しその解釈の奥義を確立した藤原定家以来、この奥義は「古今伝授」として代々その子孫に伝えられていました。戦国時代、古今伝授を受け継いだ三条西実枝(さねき)は、細川藤孝(幽斎)に伝授を託しました。
 関ヶ原の合戦の年、智仁親王に伝授がなされました。藤孝(幽斎)の当時の居城、京都・丹後の田辺城は石田方の軍勢に包囲され、平安時代以来の正当な古今伝授そのものが途絶える危機を迎えていました。
 天皇御自らの勅諚が発せられ、回避されたのです。この一件で古今伝授と細川藤孝の名が公家や大名に知られるようになったといわれています。智仁親王は桂宮家の初代で、「桂離宮」を造りました。

 園内には西日本随一の名舞台といわれた出水神社能楽殿があります。出水神社の創建と同時に建てられました。御祭神である細川歴代の方たちは武道・和歌・茶道・能楽など文化のたしなみが深かったようです。昭和40年(1965)に火災で焼失しましたが、昭和天皇在位60年を記念して以前の場所に再建されました。
出水神社能楽殿

 細川忠利は細川忠興(三斎)の三男です。母は明智光秀の娘で悲劇の女性、玉(ガラシャ夫人) です。加藤忠広の改易にともない豊前(小倉城)から肥後54万石に移封されました。柳生新陰流や二階堂流平法を修得した剣の達人ともいわれています。宮本武蔵を格別の待遇で招聘しました。
細川忠利銅像

 稲荷神社は文化6年(1809)、細川家10代斉茲が京都伏見より勧請した神社です。水前寺公園の出水神社の横にあります。
稲荷神社

 出水神社は水前寺成趣園のにあって、明治11年(1878)に創建された神社です。旧藩士の組織する甘とう会が中心になりました。藩祖細川藤孝、忠興、忠利、重賢を祀っています。後年、他の歴代藩主とガラシャ夫人玉(忠興室)も併せ祀られました。
出水神社



温知館(県立図書館・熊本近代文学館)
おんちかん(けんりつとしょかん・くまもときんだいぶんがくかん)
熊本県熊本市出水2ー5ー1
Tel 096-384-5000


 「温知館」と名付けられた県立図書館は、水前寺江津湖公園の一角に昭和60年(1985)に開館しました。蔵書能力100万冊、公立図書館では西日本一を誇っています。
 県立図書館の1階に併設され、熊本ゆかりの文学をたどることができます。初代館長に光岡明氏(直木賞作家)を迎え、開設以来、地方色を打ち出した展示で多くの人に親しまれています。 徳富蘇峰・蘆花兄弟、小泉八雲、夏目漱石、徳永直や郷土作家の展示、現代作家コーナーなども設けられています。 



夏目漱石の第3の旧宅
なつめそうせきのだい3のきゅうたく
熊本県熊本市水前寺公園22ー16
Tel 096-328-2393


 漱石は熊本滞在中6回転居しており、その3回目の「大江の家」です。漱石も鏡子夫人も、桑畑の中の閑静なこの住居を大変気に入ってたとの事です。昭和47年(1972)にこの場所に移築されたそうです。
 「吾輩は猫である」の多々羅三平のモデルといわれる五高生股野義郎を書生として置き、「草枕」の舞台となる小天温泉に同僚の山川信次郎と旅したのもこの家からであったようです。



ジェーンズ邸
じょーんずてい
熊本県熊本市水前寺公園22ー16
Tel 096-382-6076


 ジェーンズ邸は明治4年(1871)熊本藩に洋学校と医学校が設立されたときに、洋学校教師館として建てられた熊本最初の洋式建築です。コロニア風西洋建築物で、正面と両翼にめぐらされたベランダや鎧戸付きの窓などが特徴です。彼には徳富蘇峰などが師事し、多くの歴史的人物を輩出しました。
 アメリカから招かれた教師ジェーンズは、ここに明治9年(1876)までの5年間住んでいました。西南の役のときに有栖川宮熾仁親王の宿舎に充てられ、そこで佐野常民らの博愛社(後の日本赤十字社)の創設願いが許可されたため、日赤発祥の記念建造物ともいわれています。



熊本市動植物園
くまもとしどうしょくぶつえん
熊本県熊本市健軍5ー14ー2
Tel 096-368-4416


 熊本市動植物園は市の中心部からほど近い江津湖の水辺を利用した、全国でも珍しい水辺動物園です。動物園と植物園、遊園地が一緒になったレジャースポットになっています。動物園には約130種990頭が飼育され、ゾウやキリンはもちろん、孫悟空のモデルとなった「キンシコウ」などの人気者もいます。植物園では約1200種10万3千本を栽培しています。





阿蘇山
あそさん
熊本県阿蘇市・一の宮町・阿蘇町・波野村・高森町・白水村・長陽村


 阿蘇山は東西18Km、南北24Km、周囲約100Kmです。世界最大級の大きさを誇るカルデラの中に現在も噴煙を上げる中岳を始め高岳、鳥帽子岳などの中央火口丘群があります。 中でも中岳が有史後も噴火を繰り返しています。
 阿蘇山は根子岳・高岳・中岳・烏帽子岳・杵島岳の5つの山の総称です。阿蘇五岳(ごがく)と呼ばれています。カルデラの外側にはなだらかな火砕流台地によって「外輪山」が形成されており、 これらを総称して「阿蘇」と呼んでいます。

 第1火口は非活動期には「湯溜り」(火口湖)が形成され、活動期には湯溜りがなくなって黒色砂状の火山灰(地方名ヨナ)を放出します。
 中岳は安山岩・玄武岩の成層火山であり、有史後の活動は玄武岩質安山岩を噴出しています。

 中岳の山頂火口は、数個の火口が南北に連なる長径 1100mの複合火口で、近年は北端の第1火口が活動しています。
 赤熱噴石・スコリアの放出を伴うストロンボリ式噴火も起き、時には強い水蒸気爆発やマグマ水蒸気爆発を起こします。

 白い噴煙を吹き出している中岳火口は、南北約1Km、東西約4Kmの大きさで広がっています。火口の底には、煮えたぎる湯が満ちた湯だまりも見られます。一帯は硫黄の匂いがして、ガスも出ているので、風向きにより火口を覗けないこともあります。
 約30万年前に火山活動が始まりました。その繰り返しで大カルデラが生まれ、その中でまた噴火が始まり誕生したのが阿蘇5岳です。カルデラは約30万年前から9万年前までの4回の大規模な火砕流の流出に伴って形成されたと思われます。
 北側外輪山より眺める5岳はお釈迦様の寝姿に似ていることから「阿蘇の涅磐像」と呼ばれています。5岳はそれぞれの個性も豊かで、季節、場所でまた同じ山でも表情が違います。
 外輪山麓を含めると、阿蘇郡は12町村、陥没で出来たカルデラの中だけでも、7町村あります。放牧された牛が伸び伸びと草を食べていました。



阿蘇火山博物館
あそかざんはくぶつかん
熊本県阿蘇市赤木1930ー1
Tel 0967-34-2111


 九州のほぼ中央に位置する阿蘇は「阿蘇くじゅう国立公園」の中にあって、 標高1000m前後のなだらかな斜面からなる外輪山とカルデラ内に発達する中央火口丘群とで形成されます。阿蘇火山博物館はそんな阿蘇のすべてを体験できる アミューズメントスペースです。
 阿蘇山誕生物語を始め世界中の火山の資料を展示しています。火口カメラを実際に操作して火口の中を覗いて見たりすることもできます。5面マルチスクリーンに写し出される雄大な阿蘇の姿も感動ものです。



草千里
くさせんり
熊本県阿蘇市永草


 烏帽子岳の北山麓、側火山の火口跡に広がる直径1Km程の草原が草千里(草千里ヶ浜)です。中央には、丘のような標高1151mの駒立山がドンとすわっています。火口の名残の池も色を添えています。
 草千里の向こうには噴煙を上げる中岳も望めます。春から秋にかけては牛馬が放し飼いで放牧されていて、のどかな景色です。

 雨水が溜まってできた大きな池の周辺に、牛や馬が多くいて、立ち入りも自由です。乗馬も楽しめます。



オルゴール響和国
おるごーるきょうわこく
熊本県阿蘇市赤水1930
Tel 0967 -34-2271


 18世紀末にスイスで第1号が誕生したオルゴール。ここには4つの部屋があり、設けられたテーマに沿って、珍しいオルゴールが展示されています。販売もしていますのでお土産にも最適です。




老神神社
おいがみじんじゃ
熊本県人吉市老神町949
Tel 0966-22-2111


 老神神社(おいがみじんじゃ)は大同2年(807)創建と伝えられる古社で、霧島神社を勧請しています。
 明治10年(1877)、田原坂の戦いから後退し人吉に集結した西郷隆盛の軍に6月1日明治政府軍は総攻撃を開始しました。老神神社も砲撃を受け、上部に12箇所ほどの弾痕があり、西南戦争の弾痕が残る神社として知られています。
 本殿は、寛永5年(1628)、人吉藩主の相良長毎(ながつね)とその子・頼尚(よりなお)によって相良氏一族の産宮として再興された建物です。
老神神社本殿
 茅葺きの覆屋の中の本殿は正面三間、球磨地方には珍しい入母屋造りで、正面、左右の三方に高欄つきの縁をめぐらせています。平成2年(1990)に国の重要文化財に指定されました。
老神神社本殿
 老神神社の燈籠は参道の真ん中に建てられています。神域との結界を表示する人吉球磨では珍しい建て方になっています。この燈籠は基礎から石の笠まですべて八角形です。この形の燈籠は近くの青井阿蘇神社にあります。神仏習合の信仰から吉田神道の影響があったと思われています。
八角形の石燈籠



人吉城跡
ひとよしじょうせき
熊本県人吉市麓町


 人吉城は別名繊月城と呼ばれ、北側の球磨川を天然の外堀とし東側と南側は丘陵の断崖に堀をめぐらせた要塞堅固な城で国の史跡に指定されています。
 鎌倉時代から明治維新までの670年間球磨地方を治めたのは、源頼朝に仕え地頭として赴いた相良(さがら)一族です。
 最初に城を築いたのは平頼盛の家臣の矢瀬主馬佑でした。元久2年(1205)肥後国人吉荘の地頭に任ぜられた相良長頼は鵜狩りと称して主馬佑を謀殺し、城を拡張して原城と呼ばれる城を人吉城跡東南の台地上に築き上げました。
 相良氏は天正9年(1581)に島津氏に降伏し、天正15年(1587)の九州征伐の際に島津の臣下として羽柴秀吉と戦いました。
 降伏しましたが人吉城と領地を安堵され領主に戻りました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは石田三成に味方して伏見城など攻めたりしましたが西軍が敗れると徳川方(東軍)に内応し、戦功として徳川家康から2万2千石で領地を安堵されました。
 文久2年(1862)の「寅助火事」と呼ばれる大火で城は全焼し、一部の建物が再建されはしましたが、明治10年(1877)の西南戦争で西郷隆盛軍の拠点となり灰塵に帰しました。城跡は人吉城公園として整備され、隅櫓や大手門脇多聞櫓と続塀が復元されています。



青井阿蘇神社
あおいあそじんじゃ
熊本県人吉市上青井町118
Tel 0966-22-2274


 青井阿蘇神社は阿蘇神社の三神である建磐龍命、阿蘇津媛命、国造速甕玉神を祭神とする神社で、平安時代の大同元年(806)に創建されました。室町時代には、領主相良氏より氏神として篤い崇敬を受け、数度の社殿の造営・修造が行われました。
 人吉藩主相良(さがら)家20代の相良長毎(ながつね)により、慶長15〜18年(1610〜1613)に社殿の大造営が行われ本殿、廊、幣殿、拝殿、楼門が平成20年(2008)に国宝に指定されました。
 青井阿蘇神社の楼門は慶長18年(1613)に造営されました。三間一戸、寄棟造りの茅葺きでどっしりした重厚な構えです。
青井阿蘇神社楼門
 楼門の上層桝組の四隅に人吉様式と呼ばれる「阿吽(ア・ウン)の形相をした陰陽一対の鬼面が刻まれています。作家司馬遼太郎は人吉の町で驚いたのは、青井神社の桃山風の楼門だったと絶賛しています。
青井阿蘇神社楼門
 青井阿蘇神社の拝殿は慶長16年(1611)に造営されています。内部は拝殿、神楽殿、神供所の3部屋に仕切られています。桁行7間、梁間3間、1重の寄棟造りの茅葺きです。 
青井阿蘇神社拝殿
 拝殿の正面には向唐破風造り、銅板葺きの1間向拝が付けられています。神楽殿では10月8日の夕方に球磨神楽(くまかぐら)が演じられるそうです。この行事は国の無形民俗文化財に指定されています。
青井阿蘇神社拝殿
 参詣者が供え物をささげる幣殿は本殿、廊とともに相良長毎により慶長15年(1610)に造営されました。本殿から向かって縦長に配置されていて、桁行5間、梁間1間、1重の切妻造り、銅板葺きです。内部は花鳥風月、外部は動植物の華麗な彫刻などで彩られています。 
青井阿蘇神社幣殿
 青井阿蘇神社の本殿は慶長15年(1610)に建てられました。三間社流造(さんげんしゃながれづくり)で、銅板葺きです。 本殿欄間には桃山建築風の見事な花鳥の薄肉彫りが施され、桟や格狭間の位置などに人吉球磨の社寺建築の特徴がみられます。
青井阿蘇神社本殿



永国寺
えいこくじ
熊本県人吉市土手町5
Tel 0966-22-2458


 蓬莱山永国寺は釈迦三尊を本尊とする曹洞宗のお寺です。このお寺は幽霊が出たことで有名なお寺です。開山した実底超真(じっていちょうしん)和尚が描いたと伝えられる幽霊掛軸を所蔵していて、例年8月の旧盆に幽霊まつりも開かれているそうです。
 応永17年(1410)、相良9代藩主、相良前続(さがらさきつぐ)が七地(人吉市)にあった東照山清明院をこの地に移し、開基させたそうです。
 明治10年(1877)、西南戦争時、薩摩軍の本営がおかれ、西郷隆盛はここに33日間滞在したそうです。田原坂で敗れた西郷は八代よりこの地に逃れてきました。
 人吉城は取り壊されていたので、この永国寺に本営を設けたのです。その後、西郷は加久藤峠を越え小林へと逃げました。永国寺はこの時に焼失してしまいました。
 永国寺にある五重石塔は現在は四重で相輪と屋根も他のもので補充しています。嘉禄3年(1277)、大檀那藤原の銘文があり、球磨地方最古の在銘重層石塔です。相良家初代長頼(ながより)の弟・宗頼(むねより)の子の頼重(よりしげ)ではないかと推定されているそうです。
永国寺五重石塔
 永国寺に一井(いちのい)正典(まさつね)の功績をたたえる顕彰碑も建っています。相良藩に仕える武家に生まれ、西郷軍に最年少で従軍した人で、キリスト教に出会い、牧師の勧めで渡米。フィラデルフィアの歯科学校を首席で卒業後、日本人として初めてアメリカ本土で歯科医院を開業し、成功を収め、帰国後は麻酔薬の実験・開発など近代麻酔学の発展に寄与しました。
一井正典顕彰碑






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