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日本の旅
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武家屋敷竹添邸
ぶけやしきたけぞえてい
鹿児島県出水市麓町5ー17
Tel 0996-62-5505


 出水市の麓(ふもと)にある武家屋敷群は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
 麓というのは薩摩藩が江戸時代に防衛上の必要から外城(とじょう)として造った武家屋敷兼陣地のことです。外城といっても城郭を構えるわけではなく、領内を治める地頭の仮屋を設け、その周りに麓を形成させたのです。
 なかでも出水麓は肥後との国境にあることから最大規模になりました。今でも整然とした石垣や武家門、蔵などに当時の様子がしのばれます。
 公開されている竹添邸はNHK大河ドラマ「篤姫」のロケ地にもなりました。屋敷は仮屋に最も近い重要な場所にあり、幕末時代には千坪を越すほどの広さがあったようです。



宗功寺墓地
そうこうじぼち
鹿児島県薩摩郡さつま町虎居5228
Tel 0996-52-3340


 宮之城島津家の菩堤寺跡で,2代島津忠長をはじめ累代の墓が33基残っています。宗功寺墓石群として県指定文化財となっています。この墓石群は九州一の規模を誇り、国内でも珍しい墓所です。
 島津忠長は天正15年(1587)、薩摩が豊臣秀吉に攻められ降参した時、人質として京に上りました。京都では大徳寺の玉沖和尚の感化を受け宮之城領主になったとき大徳山宗功寺を建てたのです。
 墓石は構造や数、墓の台石の彫刻などに特徴があります。墓の形状は祠堂型をした他に類を見ない壮大な造りです。台座には彫刻が施され、中国や琉球文化を思わせるものがあります。明治2年(1869)の廃仏毀釈により宗功寺は廃寺となりましたが、宮之城家の墓所だけは残され、跡地は墓所を鑑賞するための公園となっています。
 中央にある祖先世功碑は5代藩主島津久胤が建てたもので、当時、幕府の弘文院学士であった林春斎の名文が刻まれています。碑を支えているのは亀です。碑の文を一度で間違わずに読み上げたら、亀が動き出して川内川の水を飲みに行くという伝説があるそうです。
祖先世功碑



宮之城歴史資料センター
みやのじょうれきししりょうせんたー
鹿児島県薩摩郡さつま町虎居5228
Tel 0996-52-3340


 宮之城島津家の墓石郡が残る宗功寺跡に隣接する資料館です。「宮之城島津家の歴史」「紫尾山の自然」などテーマ別に展示しています。外観には町の特産品である竹をふんだんに使っています。
 最後まで島津氏に抵抗し続け島津家から来た妻によって刺殺され断絶した祁答院家、島津氏に下った入来院氏、東郷氏など澁谷一族の古文書や資料なども紹介しています。



霧島神宮
きりしまじんぐう
鹿児島県霧島市霧島田口2608ー5
Tel 0995-57-0001


 霧島神宮は、平成元年(1989)5月19日、国の重要文化財に指定されています。霧島神宮は、天孫降臨 迩迩芸命(ニニギノミコト)を祀る神社です。
 天照大神は、孫であるニニギノミコトに、高天原から降りてこの国を治めよと命令しました。
 ニニギノミコトは3種の神器を譲り受け7人のお供の神と一人の道案内(猿田彦命)の神と共に高千穂の峰に降りたのでした。これが天孫降臨の神話の由来です。
 高さ23mの大鳥居をくぐり、杉木立の参道を上ると、絢爛たる朱塗りで入母屋造の社殿と拝殿が荘厳と立っています。ともに重要文化財に指定されています。
 本殿には、ニニギノミコト以下七柱をお祀りしてあります。本殿、拝殿はもとより登廊下、勅使殿等、その配置が素晴らしく宏大で壮麗な美しさです。
 第29代欽明天皇の御代(約1460年)慶胤という僧が、高千穂峯と火常峯(現御鉢)との中間の背門丘(せおと)に、社殿を建てたのが始まりであるといわれます。
 鎌倉時代になって、霧島山の大噴火があり、社殿を焼失してしまいました。その後、社殿を山の東にあたる長尾山に移したそうです。
 文明16年(1484)、島津忠昌は、この社を東西両社に分け、東社を瀬戸尾に遷座、この社が現在、宮崎県西諸県郡高原町の霧島東神社です。
 西社は、大隅国姶良郡田ロに建てられました。これが、現在の霧島神宮なのです。
 その後、火事で全焼の災にあいました。正徳5年(1715)時の藩主島津吉貴の寄進によって再建されました。これが現在の社殿です。
 明治7年(1874)までは、霧島神社と称されていたそうです。また霧島西御在所六社権現とも呼ばれ、薩摩藩歴代の篤い尊崇と衆庶の崇敬を集めてきたのです。
 慶応2年(1866)、坂本龍馬と妻おりょうは薩摩を訪れています。霧島山の峰にある天の逆鉾を見ようと高千穂登山をしたそうです。そしてこの霧島神宮にも参拝しています。現在の新婚旅行の走りでした。



城山公園
しろやまこうえん
鹿児島県霧島市国分上小川3819
Tel 0995-46-1561


 城山公園開園記念碑です。昭和53年(1978)5月に開園しました。市街地の東方約2kmにあり、標高192mの台地にあります。
 この場所は隼人城、あるいは旧薩摩藩の山城跡と伝えられていて周囲は断崖で囲まれています。ここには昭和57年(1982)に造られた平和祈念之塔が建てられています。
  園内には、高さ20mの展望台がある研修センター、観覧車、ゴーカート場、パターゴルフ場など子供から大人まで楽しめる施設があります。
 平成17年(2005)、国分市・溝辺町・横川町・牧園町・霧島町・隼人町・福山町の1市6町が合併し、人口13万人規模の「霧島市」が誕生しました。
  北に霧島連山、南に桜島の雄姿と波穏やかな錦江湾が臨めます。そして、眼下に国分平野をのぞむことができる高さ192mの高台にある公園です。



舞鶴城址
まいづるじょうし
鹿児島県霧島市国分中央2−5−1  国分小学校
Tel 0995-45-0040


 舞鶴城は国分御屋形跡とか国分新城とか呼ばれたそうです。慶長9年(1604)、島津義久は富隈城からここに移転し慶長16年(1611)に79才で亡くなるまで在城したそうです。
 島津義久の3女の亀寿姫も寛永7年(1630)に死去するまでの20年間をこの城で過ごしたそうです。
 この城の隣接地に地頭館がおかれ国分郷の政治と警備の中心として幕末まで至ったそうです。

朱門
あかもん
 舞鶴城内陣の門でした。市内重久の細山田家の祖先が領主島津義久より拝領したものだそうです。昭和38年(1963)、大隅国分寺跡に移転されていましたが台風で倒壊しました。昭和50年(1975)、国分市の市政20周年事業でここに復元しました。

孝子の碑
 国分市府中の長崎金左ヱ門の孝道を讃えるために大正6年(1917)に建てられました。
 舞鶴城下千代かけて
 建つる孝子のいしぶみは
 学びの道のかがみにて
 われらが里のほまれなり



鹿児島空港
かごしまくうこう
鹿児島県霧島市溝辺町麓822
Tel 0995-58-2740 鹿児島空港インフォメーションセンター


 鹿児島空港は、鹿児島市の北東28kmにあります。十三塚原の台地に形成され、旧溝辺町及び旧隼人町にまたがっています。
 滑走路は3000m×45m、平行誘導路、計器着陸装置を装備し、日本の南の空の玄関、南西諸島へのハブ空港として重要な役割を果たしています。
 昭和39年(1964)の試作1号機の初飛行以来、40年にわたって日本の航空路線を支えてきた「YS-11」がこの空港で見ることができました。現在は航空法の改正によるTCAS装備義務化により姿を消しました。



西郷公園
さいごうこうえん
鹿児島県霧島市溝辺町麓856ー1
Tel 0995-58-3153


 西郷公園には人物像としては日本一という西郷隆盛の銅像があります。高さは10.5m、胴回りが5.6mです。昭和51年(1976)に富山の高岡で鋳造され、昭和63年(1988)に現在の場所に完成したそうです。
 西郷公園は鹿児島空港の真向かいにあり、薩摩藩の屋敷の門構えの中に庭園や噴水を配した石畳の広場があります。西郷像がメインでおみやげ物屋が並んでいます。



龍門滝
りゅうもんだき
鹿児島県姶良市加治木町木田
Tel 0995-62-2111


 日本の滝百選にも選ばれている高さ46m、幅43mの滝で、綱掛川上流に位置しています。
 姶良市は、鹿児島県中央部にあります。平成22年(2010)3月23日に姶良郡蒲生町・姶良町・加治木町が合併して発足しました。

 龍門滝の由来は、はるか昔、この滝を見た唐人が「漢土の龍門の滝を見るがごとし」と称えたことからといわれています。周辺は展望所や遊歩道も整備されています。



桜島と鹿児島
さくらじま


 「我が胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙は薄し 桜島山」幕末の志士で筑前福岡藩士の平野国臣(ひらのくにおみ)がこう詠んでいます。
 蔓延元年(1860)10月、平野は同志有馬新七の協力を得て藩主島津久光に倒幕を勧めようと薩摩入りし伊集院に滞在しました。願いは叶わず涙をのんで伊集院を去ろうとするとき、この歌を詠んだそうです。
 錦江湾の船の中で平野が笛を奏でていた時、西郷と月照の二人は一緒に寒中の海に身を投げました。後に平野は新選組に追われながら生野の変を起こしました。結局捕えられ六角牢獄に入れられてしまいました。
 元治元年(1864)7月20日禁門の変で起きた火災が六角牢獄に迫りました。入牢者の逃亡を恐れた幕府役人により平野国臣は古高俊太郎、長尾郁三郎ら30名あまりの志士とともに斬首されてしまったのです。
 鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎も

  「我が前に 桜島あり 西郷も 大久保も見し 火を噴く山ぞ」

 と詠んでいます。
 鹿児島というと火を噴く桜島と明治維新の英雄・西郷と大久保を想像します。薩摩隼人に代表される質実剛健、勇猛果敢な気風に満ちたイメージが強いところです。
 古くは桜島のことを鹿児島と呼んでいたといわれています。「カゴ」とは朝鮮語では鉱山のことを指していたようです。鹿児島は古来より鉱物資源の豊富な場所だったのでこのように呼ばれるようになったものと考えられます。

 天文館は薩摩藩第25代藩主・島津重豪(しまづしげひで)が、天文観測や暦を研究するために創設した明時館(めいじかん)という建物がこの付近にあり、別名「天文館」と呼ばれたことから名付けられたそうです。映画館や飲食店等が立ち並び、鹿児島一番の繁華街です。
天文館

 天孫光臨の地は宮崎県の臼杵高千穂ではなく鹿児島の霧島高千穂であると神話をめぐる本家争いも続けられているそうです。



西郷隆盛蘇生の家
さいごうたかもりそせいのいえ
鹿児島県鹿児島市花倉


  西郷と月照が身を投げ西郷が蘇生した場所です。月照は京都清水寺成就院の住職でした。僧の身ではありましたが公家の近衛家と薩摩藩の橋渡し役として、朝廷方面での運動に、西郷隆盛らと活躍しました。
 安政5年(1858)、井伊直弼の安政の大獄によって月照は追われる身になっていました。近衛忠煕(ただひろ)は西郷に鹿児島でかくまってくれるように頼んだのでした。
 島津斉彬が世を去ったあとの薩摩藩では月照を藩外日向追放と決めました。船で錦江湾を戻る最中、絶望し前途を悲観した西郷と月照は船から冬の錦江湾花倉で相抱いて身を投じたのです。
 奇跡的に浮き上がって来た西郷は平野国臣らの懸命な看護でこの浜辺のこの小屋の中で蘇生し、月照は絶命したのでした。その数ヶ月前、急死した島津斉彬を追って死のうとした西郷隆盛を戒め励ましたのは月照だったのです。
 一人生き残ったことを知った西郷は自らを「土中の死骨」と呼び、生涯恥としたということです。西郷は菊池源吾と名を変え奄美大島に流されたのでした。



鶴嶺神社
つるがねじんじゃ
鹿児島県鹿児島市吉野町


 鶴嶺神社には島津家歴代当主とその家族が祀られています。亀寿姫(かめじゅひめ)も後祭神の一人です。亀寿姫は元亀2年(1571)、第16代島津義久の3女で後に第18代島津家久の妻になりました。
 亀寿姫は幼い頃豊臣秀吉の人質となるなど薄幸の生涯を送ったそうです。法名を持明院様(ジメサァ)といい女性の美を守る神様として有名です。
 島津家の祈願所の大乗院(鹿児島市清水町)にあった白地蔵は持明院様と同じジメサァと呼ばれていたそうです。
 鶴嶺神社で分けてもらった紅でお化粧したら女児が美しく育ったそうです。お参りするだけで美しい女性になれるという信仰が生まれて若い女性が参拝に訪れるのだそうです。



仙巌園
せんがんえん
鹿児島市吉野町9700ー1


 仙巌園は鹿児島市の北方にある第19代藩主・島津光久の別邸跡です。それ以後歴代島津藩主の別邸となりました。ダイナミックな進取の気風に富んだ自然を生かした屈指の名園です。磯庭園・磯の島津邸とも呼ばれています。
 磯庭園は、目の前に広がる錦江湾の海を「池」に、そして大きくそびえ立つ桜島を「築山」に見立てている雄大な借景庭園です。
 総面積4万9500平方mの庭園には島津公が趣向を凝らした庭園美や御殿など往時の栄華をほうふつとさせる庭園です。
 「仙巌園」とは、中国龍虎山の仙巌にちなんで名付けられているそうです。
 庭園の裏山には孟宗竹が広がっています。孟宗竹は江南竹といわれ、元文元年(1736)に中国から移植されたそうです。日本各地の孟宗竹は、ここ磯庭園から移植されたものだそうです。

ヤクタネゴヨウ
 御殿の前の松は、ヤクタネゴヨウといい樹高約28m、直径約1.5mの巨木で仙巌園のシンボル的な存在です。ヤクタネゴヨウとは「屋久・種子・五葉」の意味で屋久島と種子島のみに自生する五葉松の一種です。

反射炉跡
 反射炉は鉄製砲を鋳造するための溶解炉です。他藩でも数多くの反射炉が作られましたが、使い物にならなかったようです。薩摩藩の2号炉の反射炉は非常にハイレベルなもので、鉄製砲の鋳造に成功したそうです。

砲台
 第28代島津斉彬(なりあきら)(1809-1858)は諸外国と対等に接するには同じ軍事力を持つことが必要だと考えました。集成館事業の中でも造砲事業は中心的な物になりました。

正門
  明治28年(1895)に作られた仙巌園の正門です。明治4年(1871)、廃藩置県が行なわれ最後の藩主島津忠義夫人達は鶴丸城からここ磯に居住しました。
 明治21年(1888)には忠義本人もここに移り大工大重伊三次に建てさせました。 島津家の家紋、丸十と五七の桐の紋章が彫り込まれています。

錫門
すずもん
 錫門はかって薩摩藩の特産品であった錫を屋根に使った朱漆の綺麗な門です。錫瓦葺きの建造物としては我が国唯一のもので嘉永元年(1848)までは仙巌園の正門だったそうです。

獅子乗大石戸燈篭
ししのりおおいしどうろう
 大きく口を開けた獅子は飛び獅子といわれます。明治17年(1884)、29代島津忠義がお庭方小田喜三次に造らせたそうです。
 獅子と火袋石は花倉御仮谷跡のものを使い、笠石は磯海岸の防波堤に使われていた物をもってきたそうです。畳八畳分もある大きな石です。

御殿
ごてん
 磯の御殿は万治元年(1658)、19代島津光久が御仮谷を建てたのが始まりとされているそうです。その後、屋敷の南側に一亭を構えました。
 落日の日に鶴が亭前に舞い降りたことから「喜鶴亭」と名付けられたそうです。以後この御殿は島津家の別邸として使用されてきました。
 明治4年(1871)、廃藩置県が行なわれ島津忠義夫人達は鶴丸城が島津家の手を離れたためここ磯が生活の場となりました。
 明治17年(1884)、磯の御殿は大規模な改築を行ないました。明治21年(1888)には島津忠義がこの御殿に住み一時、本邸としても使用されたそうです。
 現存する建物は明治17年(1884)当時の半分の規模ですが全部で25もの部屋があります。庭園に面した部分には謁見の間、寝室、居間など8部屋の構成になっています。

望嶽楼
ぼうがくろう
 望嶽楼は19代島津光久の時代に琉球国王から贈られたと伝えられています。中国風の建物で藩主が琉球使節と面接するときに使用されたそうです。
 この建物の最も特徴のある部分は床だそうです。中国清朝初期に阿房宮の床瓦を模造したと伝えられるられる「セン」が273枚敷きつめてあるそうです。
 望嶽楼の額は中国東晋時代の書道家王義之の書を彫ったそうです。

曲水の庭
きょくすいのにわ
 背後の磯山から流れ下る保津川の谷には孟宗竹が生い茂っています。昭和34年(1959)、ここで曲水の庭が発掘されました。曲水の庭は古代中国で発達した庭園で我が国でも曲水の宴が盛んに催されたそうです。
 曲水の宴とは曲がりくねった流れに沿って所々に席を作り、上流から流した酒盃が前を流れすぎないうちに詩歌を作り、盃を取り上げて酒を飲むという宴です。

千尋巌
せんじんがん
 11mもの巨大な岩石に「千尋巌」という文字が刻み込まれています。延べ人数4千名を3ヶ月かけて完成させたそうです。

水天渕発電所記念碑
 明治40年(1907)、島津家が経営していた山ヶ野金山(やまがのきんざん)に電力を供給するため姶良郡隼人町に建てられた水天渕(すいてんぶち)発電所です。

発電用ダム跡
 29代島津忠義が建設した工場、「就成所」の送電発電用貯水槽跡です。落差を利用して水車を回転させて電力を得る仕組みになっています。

茶室
 園内には「秀成荘」と「徒然庵」という茶室があります。昭和62年(1987)に建てられた新しい建物です。

鶴燈籠
つるどうろう
 この石灯籠は日本で初めてガス灯を灯した燈籠です。28代島津斉彬は蘭学者らにガス灯の用法を書いた蘭書を翻訳させ、安政4年(1857)、石灯籠に点火させました。



尚古集成館
しょうこしゅうせいかん
鹿児島市吉野町9700ー1


 尚古集成館は、島津斉彬が幕末期の嘉永6年(1853)に藩の近代化・軍備の充実を図って建造した集成館洋式機会工場の跡です。ここは重要文化財に指定されています。
 薩摩藩ではお由羅騒動という事件がありました。藩主の座を斉彬にゆずりたくない斉興とその側室のお由羅が、久光を藩主にしようと斉彬派の武士たちを捕縛、殺害したのです。
 斉彬は密貿易を幕府に密告して斉興を失脚させました。なかなか藩主になれなかった斉彬はたまっていた鬱憤を殖産興業、富国強兵で一気に爆発させたのです。
 島津家が代々別邸として使っていた磯庭園の周辺一帯の竹林を切り開いて大工場群にしてしまったのです。鋼鉄鋳造、刀剣、火薬、農具、陶磁器、ガラス器などを製造する近代工場が集結したのでした。
 慶応元年(1865)に建てられた鉄鋼記機械工場をそのまま博物館で利用しています。尚古集成館は大正12年(1923)に博物館となり長い歴史を刻んでいます。



サビエル上陸記念碑
ざびえるじょうりくきねんひ
鹿児島県鹿児島市浜町


 フランシスコ・ザビエルが、薩摩国祇園之洲あたりに上陸したことを記念して、鹿児島市祇園之洲公園に上陸記念碑が設置されています。
 聖書の一節が刻まれています。
  たとえ全世界を
  手に入れても
  自分の命を失ったら
  なんの益が
  あろうか。
 フランシスコ・ザビエルはスペイン生まれで、イエズス会創立者の一人で、アジアを布教するために宣教師として派遣されました。
 天文18年(1549)8月15日、ザビエルは鹿児島へ上陸しました。陶板製の上陸記念碑が昭和52年(1977)に完成しました。ルイ・フランセン氏の作品です。
 毎年8月15日にこのザビエル上陸記念碑前で、ザビエル上陸記念祭のミサが捧げられるそうです。



我は海の子の歌碑
われはうみのこのかひ
鹿児島県鹿児島市浜町


 鹿児島市祇園州公園にこの歌碑は建てられています。作詞者の宮原晃一郎は明治15年(1882)、鹿児島市加治屋町に薩摩藩士の子として誕生しました。
 10歳の時に父親の転勤で北海道に移住しました。小樽新聞社の記者であった明治41年(1908)、故郷の海・錦江湾の天保山海岸をしのんで作詞した「海の子」が、文部省唱歌に「我は海の子」と題して採用されたのです。



多賀山公園
たがやまこうえん
鹿児島県鹿児島市清水町32


 多賀山公園は祇園之洲砲台の西側の丘にあります。東郷平八郎元帥の墓、銅像、また中世の東福寺城跡があります。 
 展望台からは桜島、錦江湾、北ふ頭、石橋記念公園、鹿児島市街地が見渡せます。



東郷平八郎墓所
とうごうへいはちろうぼしょ
鹿児島県鹿児島市清水町32


 東郷平八郎墓所は多賀山公園にあります。日本海海戦で名将の名を馳せた東郷平八郎元帥の墓です。ネルソン提督と比して語られる名将の墓には入港した米軍の水兵達がよく参拝しています。
 急な階段を登った上に東郷平八郎元帥の銅像が建てられています。東郷も俊才を多数輩出した加治屋町生まれでした。薩英戦争に参戦後、戌辰戦争では薩摩藩軍艦「春日」に乗り込みました。
 無維新後、日本海軍に入り、英国に7年間留学し近代海軍の姿を体験しました。日清戦争では、巡洋艦「浪速」艦長として豊島沖海戦、黄海海戦、威海衛攻撃などに参加しました。特に豊島沖海戦における「高升号」撃沈事件では東郷の名を世界的に有名にしました。これは清国兵を満載したイギリスの輸送船を撃沈した事件でした。
 明治37年(1904)の日露戦争で、連合艦隊司令長官として海軍を指揮しました。 日本海海戦では敵ロシアのバルチック艦隊を撃破し、東洋のネルソンとまで讃えられたのです。
 銅像は等身大です。雨宮光平氏によって制作され、昭和32年(1957)に設置されました。



東福寺城跡
とうふくじじょうせき
鹿児島県鹿児島市清水町


 東福寺城は統合東郷墓地から鳥越トンネルあたりまであったと思われています。海側は絶壁で反対側も急な斜面になっていて、山全体が天然の山城だったようです。
 天喜元年(1053)、藤原純友から4代目になる長谷場永純が築城したそうです。日向、大隅、薩摩で初めての城だったといわれています。
 南北朝時代(1336-1392)、この城をめぐって激しい戦いが行なわれたそうです。長谷場、矢上、中村、上山、谷山の各氏は南朝方に付き、島津氏は北朝方に属していました。
 薩摩の地頭島津家5代貞久は興国4年(1343)、東福寺城にこもる矢上氏一族を攻め落とし鹿児島を治める根拠地としたのでした。



祇園之州公園
ぎおんのすこうえん
鹿児島県鹿児島市浜町1ー3


 祇園之州という名称は稲荷川河口の祇園社(八坂神社)に由来します。5社のひとつとして歴代藩主の信仰が厚く、京都祇園社にならった祇園祭り(おぎおんさぁ)は今もなお華やかな御神幸列を伝えています。
宣力殉難報国諸子之碑
 祇園之州公園には宣力殉難報国諸子の之碑、西南戦争官軍戦没者慰霊塔、祇園之洲砲台跡などがあります。



祇園之洲砲台跡
ぎおんのすほうだいあと
鹿児島県鹿児島市浜町1ー3


 このあたり一帯は昔、遠干で祇園浜と呼ばれていたそうです。島津家27代斉興のもとで藩政改革を断行した調所(ずしょ)広郷が兵士の屯集所として埋め立てたところだそうです。
 その後、島津斉彬がここに砲台を設置したのでした。薩英戦争で初めて実戦に供されたのです。正午に始まった砲撃戦は3時間にわたり双方に相当の被害が出ました。
 最後尾で祇園之洲砲台を攻撃していたレースホース号は浅瀬に乗り上げました。しかしアームストロング砲で見方の砲台は打ち砕かれていたのでした。イギリス側は63名、薩摩側は13名の死傷者を出したそうです。



西南戦争官軍戦没者慰霊塔
せいなんせんそうかんぐんせんぼつしゃいれいとう
鹿児島県鹿児島市浜町


 祇園之州公園にある西南戦争官軍戦没者慰霊塔です。7ヶ月の間政府軍と薩摩軍攻防を繰り返し、官軍側6840人、薩摩軍6400人の戦死者が出ました。



石橋記念公園
いしばしきねんこうえん
鹿児島県鹿児島市浜町


 平成5年(1993)、鹿児島を襲った集中豪雨による大水害で鹿児島市の中心部を流れる甲突川に架橋されていた貴重な石橋2つが流失しました。残った西田橋、高麗橋、玉江橋が移設復元され、石橋記念公園として開園しました。
高麗橋
 「薩摩の五大石橋」と呼ばれた石橋は肥後の石工・岩永三五郎が造ったものです。5橋ともアーチ式で江戸後期の弘化3年(1846)から嘉永2年(1849)の間に架橋されたそうです。
 なかでも西田橋は城下の表玄関にあたり、江戸への参勤交代の本道でもあったため入念に仕上げられています。自動車が通行出来るほどの強度を兼ね備えていたのは驚きです。



南洲墓所
なんしゅうぼしょ
鹿児島県鹿児島市上竜尾町2ー1


 城山の北隣、鹿児島駅裏手の錦江湾を望む丘に、南洲公園に続いて南洲墓地があります。西郷隆盛をはじめ、西南戦争で戦死した2千名余の人が葬られています。
 西郷隆盛の左右には桐野利秋、篠原国幹、村田新八ら諸将の墓が並んでいます。墓地の北側には西郷隆盛を祀る南洲神社があり、近くに西郷南洲顕彰館があります。
 明治10年(1877)、城山の戦いが終わり、西郷以下40名を浄光明寺に仮埋葬しました。明治12年(1879)、城山近辺に散在していた約200名の遺骨を同墓地に改葬しました。
 野村忍介などが先頭に立ち九州各地に散在する約1800名の遺骨を改葬し、西郷隆盛を中心に眠る南洲墓地としたのでした。
 階段を上ると正面に西郷隆盛の墓が桜島を望むようにたたずんでいます。兄弟5人みな戦死した児玉兄弟や最年少の14歳にして死した池田烈士の墓なども含まれています。

 桐野利秋の墓です。
 薩軍総指揮官、4番大隊長です。無類の豪胆な性格で勤王の志士として活躍しました。「人切り半次郎」こと中村半次郎の名で有名です。陸軍少将、熊本鎮台司令長官、陸軍裁判所長を歴任しました。享年40才でした。
 篠原国幹の墓です。
 薩軍一番大隊長でした。桐野利秋と並び立つ猛将で知略家でした。私学校銃隊の監督もしていました。陸軍少将、近衛兵司令官を歴任。明治10年吉次越えの激戦地で陣頭指揮をとりました。享年42才でした。
 村田新八の墓です。
 薩軍二番大隊長でした。明治4年宮内大丞となり岩倉具視一行に加わり欧米を視察しました。明治7年薩摩に戻り私学校砲隊の監督に就任しました。城山最後の日、西郷隆盛の死を見届けた後自刃しました。享年42才でした。
 別府晋介景長の墓です。
 明治6年近衛少佐を辞して薩摩に戻り加治木区長となりました。西南の役では6番7番大隊長として出陣しました。明治10年9月24日早朝、岩崎谷口に向かい突進中銃弾を受けた西郷隆盛の命により介錯をしました。享年31才でした。



南洲神社
なんしゅうじんじゃ
鹿児島県鹿児島市上竜尾町2ー1


 西郷隆盛をお祭りしてある神社です。
 西郷さんの残した「敬天愛人」は有名な言葉です。
  我家松籟洗塵縁
  満耳清風身欲僊
  謬作京華名利客
  斯声不聴己三年
 明治6年(1873)征韓論問題で政府を辞して帰郷した11月10日南州が詠んだ漢詩です。
 西南の役戦没者慰霊碑です。
 平成13年(2001)に建てられたものです。明治10年(1877)9月の西南の役終息により120余年、戦域より遺砂を集めて建てられました。



西郷南洲顕彰館
さいごうなんしゅうけんしょうかん
鹿児島県鹿児島市上竜尾町2ー1


 西郷南洲百年記念事業として、西郷南洲翁を慕う全国の人々からの寄付により昭和52年(1977)建設着工し、翌年6月30日に鹿児島市に寄贈されました。
 西郷隆盛(南洲翁)の生涯や業績、その伸びやかな素晴らしい筆跡など西郷に関する資料や遺品がたくさん展示されています。



西郷隆盛終焉之地
さいごうたかもりしゅうえんのち
鹿児島県鹿児島市城山町12ー7


 城山公園登り口近くには西郷隆盛が自決した場所を示す「南洲翁終焉之地」という記念塔が立っています。
 明治10年(1877)9月24日、死を決した西郷隆盛は桐野利秋、別府晋介、村田新八、池上四郎などと夜明けを待って洞窟を出ました。流れ弾が西郷隆盛の腰や股に命中しました。
 「晋どん、もうここでよか」と別府晋介に介錯を頼み自刃して49歳の生涯を閉じたのでした。「おはんらにやった命」がなくなったのでした。



鶴丸城址
つるまるじょうし
鹿児島県鹿児島市城山町7


 城山の山麓に鶴丸城跡があります。城館は何も残っていません。慶長7年(1602)に18代島津家久が着工し、29代忠義まで薩摩藩島津家の居城となっていました。
  鶴丸の名前は城構えが翼を広げた鶴の形に似ていたために名付けられたようです。鶴丸城の楼閣は明治6年(1873)の火災で焼失してしまいました。
 この城は、近世一般の城郭に見られるような戦闘に備えた高い石垣の上に天守閣がある堅固な防備の城郭とは異なり、南国の雄島津氏にしては質素な天守閣のない屋形造りの居館であったようです。
 「城をもって守りとせず、人をもって守りとなす」という兵学精神に基づいて築城されたようです。また関ヶ原の戦いでは家久の兄17代義弘が西軍についたため家康への恭順を示すためでもあったようです。



黎明館
れいめいかん
鹿児島県鹿児島市城山5ー1


 鹿児島県歴史資料センター黎明館には鉄砲伝来、明治維新関連、考古・民俗資料、美術工芸品などが収蔵されています。
 この博物館は、明治100年を記念して旧鶴丸城の敷地内に昭和58年(1983)10月に開館しました。城や鹿児島の歴史を知るのに最適です。



薩摩義士碑
さつまぎしひ
鹿児島県鹿児島市城山町


 鶴丸城跡の東北端、城山登山口の一隅にあります。山形にひと固まりになった碑群です。岐阜の木曽川・長良川・揖斐川などの治水工事に従事して亡くなった多くの人達の供養塔として大正9年(1920)に建てられたものです。
 この工事は幕府の外様大名に対する過酷な政策の一つでした。総奉行として家老平田靱負(ゆきえ)は千人を使って工事にあたらせました。苦労の末完成させましたが40万両の大金と80人もの犠牲者をだし、引渡し後自刃して果てました。



私学校跡
しがくこうあと
鹿児島県鹿児島市城山町6ー1


 鶴丸城は元禄9年(1696)に大火によって焼失し、復旧され、明治6年(1873)に再び火災で焼失しました。征韓論に破れて下野した西郷隆盛は、この焼け跡に「私学校」を設立したのでした。
 学校は篠原国幹(くにもと)が監督する銃隊学校と村田新八が主宰する砲隊学校に分かれ教えました。これらの生徒が中核として西南戦争が起きてしまったのです。



西郷洞窟
さいごうどうくつ
鹿児島県鹿児島市城山町19


 城山の展望台から徒歩で15分ぐらい下ったところの岩崎谷に西南戦争最後の本陣である「西郷洞窟」があります。
 洞窟は奥行き5m、間口3mの小さなもので西郷隆盛が自決するまでの5日間をここに寝起きしていたそうです。
 明治10年(1877)9月24日、午前4時明治政府軍の城山総攻撃が始まりました。城山に立てこもる薩摩兵士はわずか300名足らず、取り囲む政府軍は4万人で何重にも柵をめぐらしていました。
 死を決した西郷隆盛は桐野利秋、別府晋介、村田新八、池上四郎などと夜明けを待ってこの洞窟を出ました。



石仏十三体
せきぶつじゅうさんたい
 城山公園に登る途中に石仏十三体があります。弘法大師の徳を慕う鹿児島市内の観音講の人々が四国88ヶ所になぞらえ、大師の尊像88体を伊敷の梅ヶ淵や谷山の慈眼寺、この城山などに建立したのです。西郷の首を薩摩兵がこの付近に埋めたとの話もあります。



城山公園
しろやまこうえん
鹿児島県鹿児島市城山


 城山は鹿児島市街のほぼ中心にある小高い山で標高107mあります。南北朝時代には上山氏が居住していました。
 明治10年(1877)の西南の役では、西郷隆盛以下薩摩軍の将兵達が、立てこもり最後の激戦地となったところで有名です。
 城山周辺には西南戦争に関わるさまざまな旧跡やエピソードが残っています。展望台から鹿児島市内と桜島が見渡たせます。

 市街地ながら600種以上の植物が自生する自然公園で全体が亜熱帯樹木におおわれています。登山道や自然遊歩道も整備されています。



照国神社
てるくにじんじゃ
鹿児島市照国町19ー35


 照国神社は鶴丸城二の丸跡に建てられています。28代薩摩藩主島津斉彬を祀っている神社です。島津斉彬は嘉永4年(1851)からわずか7年の在任期間でしたが薩摩の英明君主と謳われた人物でした。
 島津斉彬はその短い在任期間に西洋文明の吸収に努め、工業を興し、富国強兵を進めて西郷隆盛や大久保利通らを育て、近代日本の基礎を築いた人です。
 この神社の中には「照国文庫資料室」という記念室があり、わずかですが、島津斉彬に関する資料を展示しています。
 鹿児島の夏の風物詩、「六月灯」は旧暦6月の間、南九州各地の寺社で開かれる夏祭りです。江戸時代、薩摩藩主が寺の観音堂を造りかえた際、献灯した故事にちなんで行われる地域のお祭りでした。
 庶民の間では夏場の病気や農作物の病虫害など災厄を払う意味でそれぞれの集落の神に参り、拝んできたのです。
 照国神社の六月灯は鹿児島市内で最大級、毎年およそ30万人を超す人出でにぎわいます。7月15、16の両日に開催されます。
 幅2.5mの大灯ろうをはじめ、約1000個の灯ろうの明かりに彩られるのです。
 境内には島津斉淋、久光、忠義3候の銅像が立っていました。
 3候の銅像の横には戊辰の役戦士顕彰碑が建てられています。
 薩摩からの戊辰戦争での戦死者は人夫・水夫・足軽を含み524名だったそうです。戦闘に参加したのは5千人いたそうです。




西郷隆盛銅像
さいごうたかもりどうぞう
鹿児島県鹿児島市城山町4ー36


 西郷隆盛の銅像は市立美術館のすぐそばにあります。台座とあわせて高さ8mの銅像です。昭和12年(1937)に西郷隆盛没後50年祭記念事業として鹿児島市出身の彫刻家で渋谷の「忠犬ハチ公」で知られる安藤照が造りました。
 軍服をきた西郷は明治6年(1873)の陸軍特別大演習の時の姿だといわれています。西郷は吉之助、号は南洲(なんしゅう)と名乗っていました。本名は隆永(たかなが)でした。隆盛という名は、明治天皇が西郷を表彰する際に、吉井友実に公式の場で使う諱を訊ねた時、彼の父の名「隆盛」が西郷の名であると勘違いし、これが誤って広まってしまったそうです。



鹿児島県立博物館
かごしまけんりつはくぶつかん
鹿児島県鹿児島市城山町1ー1


 鹿児島県立博物館は、鹿児島の自然に親しみ、自然を中心とする博物館です。
鹿児島市ではこの付近から黎明館、私学校跡までの道のりを「歴史と文化の道」と呼んでいます。
 少し先にある県立博物館考古資料館は日本でも数少ない石造建築物で明治16年(1883)に鹿児島市で開催された九州沖縄連合共進会のパビリオンとして建てられたものだそうです。昭和28年(1953)より県立博物館として使用され、現在は考古資料館となっています。
 現在の県立博物館は昭和2年(1927)の築造で以前は図書館だったそうです。展示品としては日本には4〜5体しかない恐竜の化石が2体もあります。そのほかプラネタリウムや自然史、理工関係の展示物があります。



鹿児島市立美術館
かごしましりつびじゅつかん
鹿児島県鹿児島市城山4ー36


 鹿児島市立美術館は城山の麓、鶴丸城二の丸跡の地にあります。隣には西郷隆盛の銅像があります。彫刻類は、ロダン、ブールデル、マイヨールなど展示しています。
 鹿児島出身の黒田清輝、藤島武二、和田英作、東郷青児などの郷土作家と現代工芸、印象派のモネ、ルノアール、セザンヌなどの西洋美術の作品を展示しています。
 黒田清輝「アトリエ」、和田英作「赤い燐寸」、東郷青児「ブローニュの森の風景」、山口長男「卓上B」、モネ「睡蓮」、セザンヌ「風景」、ダリ「三角形の時間」、カンディンスキー「二つの黒」など有名です。



かごしま近代文学館・かごしまメルヘン館
鹿児島県鹿児島市城山5ー1


 かごしま近代文学館には海音寺潮五郎、椋鳩十、林芙美子、島尾敏雄、向田邦子など鹿児島ゆかりの作家や歌人、俳人の作品を展示してその業績を紹介しています。
 かごしまメルヘン館では世界の童話・民話を人形や映像等で楽しく紹介しています。大型スクリーンによる映像とそれに連動するキャラクター人形等で構成された体感スタジオも人気だそうです。



南洲寺
なんしゅうじ
鹿児島県鹿児島市南林寺23ー22


 「南洲寺」は西郷隆盛の菩提寺です。南洲は西郷隆盛の号です。ここには京都の清水寺の僧・月照の墓があります。
 月照はもともと清水寺成就院に住持する一祈祷僧でした。 清水寺を統括支配していたのは興福寺でした。興福寺は、藤原氏の後裔近衛家の祈願寺でもあったのです。幕末の勤皇運動家であった近衛忠熙とのつながりが強かったのでした。
 成就院は、薩摩と近衛家とのパイプ役を果たしていて、斉彬の下で活躍していた西郷隆盛と親交がありました。隆盛が尊敬する島津斉彬が急死したとき、殉死を止めるように諭したのは月照でした。月照は安政の大獄で追われる身となり京都を脱出し薩摩藩に逃れましたが藩では日向追放を西郷に命じました。
 西郷隆盛と月照は一緒に錦江湾に入水自殺を図りました。西郷は奇跡的に一命を取り留めましたが、月照は帰らぬ人となったのです。享年46歳という若さでした。月照の遺骨は南林寺にあった西郷家墓域内に埋葬秘匿されていましたが、明治12年(1879)に改葬されこの南洲寺に移されたそうです。



大久保利通銅像
おおくぼちしみちどうぞう
鹿児島県鹿児島市


 大久保利通は西郷隆盛とともに薩長同盟の中心的存在となり倒幕に尽力しました。明治維新後は木戸孝允らと新政府を指導、版籍奉還、廃藩置県を推し進めました。
 明治4年(1871)に大蔵卿になり殖産興業・地租改正をしました。特命全権副使として岩倉使節団に随行しました。内政整備を主張し、征韓派参議を下野させるとともに、参議兼内務卿となり、政権を掌握しました。
 西南戦争に代表される各地の士族反乱を鎮めたりしましたが明治11年(1878)、不平士族に暗殺されてしまいました。鹿児島では圧倒的に西郷隆盛の方が人気があるのですが現在の日本は大久保利通がいたからこそできあがったのではないでしょうか。



大久保利通生誕の地
鹿児島県鹿児島市


 加治屋町の一角に「大久保利通誕生地」という大きな石碑が建っています。実際には甲突川(こうつきがわ)を挟んだ対岸の高麗町(これまち)が誕生地です。人格形成を決定付けたのは、西郷やその他同志との交わりを持ったここ下加治屋町でした。案内の説明文には「生い立ちの地」という表現を使っています。
 すぐ近くに「西郷隆盛誕生地」という石碑が建っていますが、「大久保利通誕生地」と全く同じ大きさで同じ形式で彫られています。西郷の従兄弟にあたる大山巌が石碑製作の際、西郷と大久保の碑を全て差別・区別の無いように製作するよう注文したからだそうです。



戦災復興記念碑
鹿児島県鹿児島市加治屋町


  大久保利通銅像と大久保利通生い立ちの地の中間に戦災復興記念碑が建っています。鹿児島市は太平洋戦争末期の昭和20年(1945)3月18日以来8回の空襲を受けました。実に市街地の93%を焼失したのです。南日本最大の都市に復興したのです。歴史的復興事業を記念して昭和57年(1982)に建設されました。



西郷隆盛誕生地
鹿児島県鹿児島市加治屋町


 維新ふるさと館のすぐそばに西郷隆盛誕生地があります。この加治屋町一帯は薩摩藩下級武士の居住地で、明治維新の偉人たちの出身地でもあるのです。
 「大きくたたけば大きく鳴る。小さくたたけば小さく鳴る」と土佐の坂本龍馬を驚かせた西郷隆盛の器量の大きさは彼が生まれ育った下加治屋町の郷中(ごじゅう)教育によって培われたといわれています。
 文政10年(1827)、西郷隆盛は下級武士の家の7人兄弟の長男として誕生しました。貧しい生活の中で藩校造士館に通い、下加治屋町の郷中の少年達のリーダーになっていきました。町ごとに区切られた郷中という単位で少年達が集まり厳しくしつけられたのでした。
 西郷隆盛の3男で海軍大臣を勤めた従道(つぐみち)の庭園にあった石です。中央のメインは伊豆石、手前の横に長いのが紀州の青石、右下が伊予の石で造られています。目黒区の西郷従道邸庭園から贈られました。



維新ふるさと館
いしんふるさとかん
鹿児島県鹿児島市加治屋町23ー1


 幕末の薩摩藩の歴史をビジュアルで見せるテーマ館です。館内にはジオラマや、西郷隆盛ら7体の等身大ロボットがあり、幕末の薩摩藩や人物を紹介しています。
 地下1階の維新体感ホールでは「維新への道」という映画を上映しています。幕末の薩摩藩の歴史の流れを概略知ることが出来ます。
 西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎、大山巌などの生誕地である加治屋町に造られました。「薩摩の女性」「維新の源流」「鉄砲・キリスト教伝来」などとわかりやすく展示しています。



佐多岬
さたみさき
鹿児島県肝属郡南大隅町


 日本本土最南端の岬です。インドのニューデリー、エジプトのカイロと同じ緯度の北緯31度線上に位置しています。
 南端の断崖から50m沖の大輪島に日本最古の一つである佐多岬灯台があります。この灯台は、慶応2年(1866)、江戸条約によって建設することを約束した8ヶ所の灯台の一つです。R・H・ブラントンが設計・指導して、明治4年(1871)に完成しました。
 昭和20年(1945)の空襲で焼失してしまいました。現在の灯台は昭和25年(1950)に復旧したものです。太平洋、東シナ海、錦江湾に面し晴れた日には種子島や屋久島を見ることが出来ます。「日本の灯台50選」にも選ばれています。眼下にはエメラルドブルーの大海原が広がります。
 佐多岬ロードパークは佐多岬に通ずる唯一の有料道路です。亜熱帯植物などが植えられているものの管理は今ひとつといった感じでした。展望台も落書きがひどくマナーの悪さが目立ちました。



内之浦宇宙空間観測所
うちのうらうちゅうくうかんかんそくじょ
鹿児島県肝属郡肝付町南方1791ー13
Tel 0994-67-2211
 内之浦宇宙空間観測所では、昭和37年(1962)以来、大小380機を越す科学観測ロケットおよび科学衛星が打ち上げられました。昭和45年(1970)、わが国初の人工衛星「おおすみ」を打ち上げて以来、23個の衛星・探査機を宇宙に送り出しています。
 34mアンテナは臼田宇宙空間観測所の64m宇宙用アンテナのバックアップをしています



開聞岳
かいもんだけ
鹿児島県指宿市


 薩摩半島の最南端。温泉地で有名な指宿の南西部に位置する開聞岳は円錐形をした美しい山容であり薩摩富士と呼ばれています。
 開聞岳は標高924mです。東シナ海の黒潮にその裾野を洗われ日本本土最南端の美しい休火山です。広大な山麓の日本一のスケールで広がる開聞山麓自然公園では、農耕用の「トカラ馬」が飼育されています。
 開聞岳は、約4000年前に噴火を始めたようです。約2500 年前には溶岩を流出し、現在とほぼ同じ規模の山体が完成していたものと推定されています。



知覧武家屋敷庭園
ちらんぶけやしきていえん
南九州市知覧町郡6198
Tel 0993-58-7878


 知覧は「薩摩の小京都」といわれ、生け垣と石垣が美しい武家屋敷が今も残っています。重厚な石垣に大刈りの植え込みは、琉球や中国の影響を受けたといわれています。
  武家屋敷通りと亀甲城跡を含む18.6ヘクタールが国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、7つの庭園は知覧麓庭園として国の「名勝」に指定されています。
 麓というのは薩摩藩が江戸時代に防衛上の必要から外城(とじょう)として造った武家屋敷兼陣地のことです。外城といっても城郭を構えるわけではなく、領内を治める地頭の仮屋を設け、その周りに麓を形成させたのです。
 地区内は石垣で屋敷が区切られ、生垣及び屋敷は有事の際には塁、防壁として役立つように作られています。屋敷入口には屋敷内が見えないように屏風岩などがあるのも特徴です。



知覧特攻平和会館
ちらんとっこうへいわかいかん
鹿児島県南九州市知覧町郡17881
Tel 0993-83-2525


 知覧町と言えば、太平洋戦争中に置かれていた特攻隊基地の町として全国的に知られています。特攻平和会館は太平洋戦争の沖縄決戦において特攻という人類史上類のない作戦で、爆弾搭載の飛行機もろとも肉弾となり、一機一艦の突撃を敢行した多くの特攻隊員の遺品や関係資料を展示しています。
 館内には数々の資料を展示すると同時に、戦争の傷跡が残るゼロ戦の残骸が展示されています。両親に宛てた手紙など涙なしでは読めない内容です。平和ぼけしている私には考えさせられた施設でした。



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