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日本の旅
日本の旅          鹿児島・奄美大島
奄美大島
あまみおおしま


 奄美大島は南に接する加計呂麻島(かけろまじま)・請島(うけじま)・与路島(よろじま)を含め奄美大島と呼ばれています。
 島の周囲は405km、面積712平方kmと日本では沖縄本島、佐渡島についで3番目に大きな島なのです。島のほぼ80%は深い森で、平地が少ない島です。
 奄美大島は鹿児島県薩南諸島の南部にあり、鹿児島から南へ380km、沖縄本島から北へ300kmの位置にあります。
 奄美では、日平均気温が10度以下になる日がなく冬がありません。25度以上の夏の期間が約年間3分の1もあり、年平均気温21.3度の亜熱帯気候の島なのです。
 樹齢130年といわれる天然林が生い茂っている金作原原生林は天然記念物の鳥類なども生息、珍しいシダ類も多く、まさに東洋のガラパゴスです。降雨量も年間3000mmを越す地域なのです。
 約100万年前、陸続きだった大陸から地殻変動により、奄美、琉球列島が分かれました。 個々の島々に残った動植物が独自に進化し固有の生態系を現在でも残しているのです。
 「日本書紀」には海見、「続日本紀」には阿麻美という文字が残されています。鎌倉時代に入り琉球王国に入貢しました。慶長14年(1609)以降は薩摩藩の直轄地となりました。
 明治時代以降は鹿児島県に属しています。第二次世界大戦後、アメリカ軍の軍政下におかれ、臨時北部南西諸島政庁(のち奄美群島政府)から琉球政府の統治をへて昭和28年(1953)12月25日にようやく日本に復帰しました。



奄美空港
あまみくうこう
鹿児島県奄美市笠利町


 奄美大島の空の玄関口「奄美空港」です。本土からは鹿児島空港・伊丹(大阪)空港・羽田空港と結ばれています。その他、与論島以外の奄美諸島(与論は沖永良部経由)、沖縄の那覇空港と結ばれています。
 空港ターミナルビルの特徴は、屋上にある高倉(この地方で昔使われていた倉庫)を模した三角形の屋根が三つあることです。
 以前の奄美空港は現在の空港から南側に車で5分くらいのところにありました。滑走路は1200mしかなくYS11ぐらいしか就航できませんでした。そこは今は奄美パークになっています。
 空港に飾られたアイノコと呼ばれる舟です。
 奄美のイタツケ(板付舟)と沖縄のサバニーの長所をとって折衷した形でこの名前になりました。大正時代に考案され今でも漁に使われているそうです。 
 現在の奄美大島空港は、珊瑚礁のリーフを埋め立てて作った空港です。着陸態勢になったときに窓を見ると美しい珊瑚の中に突進していました。
 これらの珊瑚が死に絶えないように祈るばかりです。石垣空港も同じやり方で建設しようという計画がありましたが、猛烈に反対され結論は出ていないようです。



黒潮の森マングローブパーク
くろしおのもりまんぐろーぶぱーく
鹿児島県大島郡奄美市住用町石原478


 平成13年(2001)に「黒潮の森 マングローブパーク」がオープンしました。奄美特有の動植物や自然とふれあえる体験型の公園施設で、道の駅「奄美大島住用」にもなっています。
 展示施設のマングローブ館にはジオラマ水槽やマルチスクリーンがあり映像や展示でマングローブの自然を知ることができます。
 スミヨウガーデン、ふれあい広場、大滝などが整備され、スミヨウガーデン、ふれあい広場などが整備され、カヌー乗り場や展望台行きのマウンテンライナー乗り場まで行かれます。
 カヌー乗り場からは、隣接する奄美群島国定公園特別保護地区へ水路で行くカヌーツアーを体験することもできます。
 展望台へのモノレールのマウンテンライナーは急峻な山道をあっという間に駆け上り山頂駅まで運んでくれます。
 目の前にはグリーンのじゅうたんを敷き詰めたようにマングローブの密林が広がり、河口の両岸には山が迫っていました。
 マングローブ(Mangrove)とは、熱帯地方の河口域などの塩性湿地に生育する森林のことです。日本では沖縄から九州南端までが生育できる地帯です。
 マングローブとは森林の型につけられた名であって、そのような名の植物があるわけではありません。
 熱帯や亜熱帯地域の河口など、満潮になると海水が満ちてくるところに生えている植物をまとめてマングローブと呼んでいるのです。
 マングローブを構成する主要な植物はメヒルギとオヒルギです。オヒルギはここが日本の北限にあたるそうです。
 太平洋に流れ込む住用川(すみようがわ)と役勝川(やくがちがわ)が合流する70万平方m以上のデルタ地帯にこの原生林が発達しています。
 マングローブは波があたるような場所では生育できないそうです。満潮(まんちょう)になると海水が満ちてくるようなところ潮間帯(ちょうかんたい))に生えている植物なのです。
 泥質の中は酸素が不足がちになるため、呼吸根といわれる地表に顔を出す根を発達させるものが多いようです。
 マングローブは塩分を取り過ぎないように根の部分で塩分をろ過するのだそうです。ろ過しきれなかった塩分は葉に溜めこまれ、その葉は黄色くなって枯れるということです。



伊須湾
いすわん
鹿児島県大島郡瀬戸内町


 瀬戸内町の綱野子あたりからの景色です。手前は伊須湾です。観光スポットにはなっていませんが、とても海の色が深い素晴らしい景観です。
 中央の左側の半島はホノホシ海岸です。その向こうは大島海峡東口をはさんで加計呂間島が見えています。
 瀬戸内町の勝浦(かちうら)からの景色です。東の太平洋側には真崎があります。この岬の向こう側に嘉徳という集落があります。
 この嘉徳はワダツミの木で一躍有名になった歌手の元ちとせさんの生まれ故郷だそうです。
 元ちとせさんは嘉徳の家から古仁屋高校まで20km近い道のりを毎日40分かけてこの道をバイク通学していたそうです。



古仁屋
こにや


 古仁屋は名瀬に次ぐ大きな街で、かつては軍港で海軍航空隊古仁屋基地がありました。第二次大戦末期には沖縄周辺の米軍の艦船に水上機による攻撃を行ったそうです。
 寅さんのロケ地でした。買い物帰りのリリー(浅丘ルリ子)が海上タクシーの船に乗り込み旅先の満男(吉岡秀隆)に出会ったところです。



古仁屋港
こにやこう


 古仁屋には大きく2つの港があります。海に向かって左手の港は鹿児島から徳之島、沖永良部を結ぶ大きなフェリーが発着するところです。右手の港は加計呂麻島行きのフェリーが発着しています。
 「フェリーかけろま」は1日に7往復します。瀬相(せそう)行きが4往復、目的地の生間(いけんま)行きは3往復しかありません。行きは海上タクシーに乗ることにしました。
 フェリーかけろまと同じ港に「瀬戸内海上タクシー」と「古仁屋海上タクシー」の待合所がありました。そこにいた船長に頼みました。
 男はつらいよ、最終話、寅次郎紅の花では、俳優田中邦衛が海上タクシーの船長の役をやっていました。
 ホームページなど見ていると乗船料は1500円だと書かれていましたが、原油急騰のため500円値上げされたそうです。それでも2、30人乗れそうな船にたった一人だけ、しかも操縦席の隣に乗せてもらえたので満足しました。



大島海峡
おおしまかいきょう
鹿児島県大島郡瀬戸内町


 奄美大島と加計呂麻島の間に横たわる幅約3kmの穏やかな海峡です。抜群の透明度を誇っていて東洋一といわれる美しい珊瑚礁のメッカです。
 太平洋と東シナ海の特徴を併せ持っていて海岸線はどちらの島も複雑に入り組んだリアス式海岸です。「亜熱帯の瀬戸内海」ともいわれ、美しい景観をみせてくれます。
 この海峡は軍事的にも重要な地点とされて海上自衛隊の潜水艦「なつしお」(2450トン)などが監視を強化しているようです。
 平成16年(2004)10月中旬以降、種子島南東海域や魚釣島付近で中国海軍とみられる潜水艦救難艦や曳船(えいせん)、測量艦が確認され、海自側が中国海軍潜水艦が周辺で調査活動している可能性が高いとして警戒していました。
 沖縄県の先島諸島周辺海域に中国原子力潜水艦が侵入しました。日本側が海上警備行動を発令しましたが逃げられ中国側からの陳謝もありませんでした。



加計呂麻島
かけろまじま
鹿児島県大島郡瀬戸内町


 加計呂麻島は本島にある瀬戸内町の港から船で約20分のところにあります。穏やかな入江は真珠やクロマグロの養殖も行なわれています。
 デイゴの並木の前にはサンゴ礁の海、白い砂浜、水のきれいなビーチが点在し、海水浴客やダイバーが多く訪れます。
 この付近で作られる黒糖焼酎は独特の甘みと香りを持った酒です。米こうじと奄美特産の黒砂糖を主原料に醸造された蒸留酒です。島唄を聞きながら一杯は最高です。
 加計呂麻島では砂糖きび栽培が盛んです。諸鈍(しょどん)まで行く途中の農家にはそれらの設備がありました。今から約400年も前の慶長6年(1601)に始まったそうです。
 砂糖きび酢も有名です。中国から約200年前杜氏が渡って来て、酢造りの方法が伝えられ、加計呂麻島の気候の中で永い間はぐくまれてきました。生活に欠かせない知恵として受け継がれ健康長寿の里を築いているのです。



諸鈍
しょどん
鹿児島県大島郡瀬戸内町諸鈍
 諸鈍は諸鈍長浜ともいわれています。南に面した大きな湾のもっとも奥の方にある長い浜辺。その浜辺に沿って諸鈍の集落があります。諸鈍長浜公園には白い砂浜の諸鈍海水浴場が目の前に広がっています。
 山田洋次監督の碑です。平成7年(1995)の秋この加計呂麻島で寅さんシリーズ最後の作品となった第48作「寅次郎紅の花」のロケーションをした記念に建てられています。
 寅さんの数あるマドンナの中でも最愛の人リリー(浅丘ルリ子)がこの加計呂麻島にひっそりと暮らしていました。リリーを訪ねてきた寅さんも居着いていました。
 寅さんはここの暖かい気候と穏やかな人情がすっかり気に入って居座っていました。そこへ寅さんの甥の満男(吉岡秀隆)が恋人の嫁入りをぶち壊してふらふらとやってきたのでした。



大屯神社
おおちょんじんじゃ
鹿児島県大島郡瀬戸内町諸鈍
 大屯神社は平家の落人・平資盛(たいらのすけもり)を奉ってある社です。ここで貴重な郷土芸能で国指定重要無形民俗文化財である「諸鈍シバヤ」が演じられます。



諸鈍シバヤ
しょどんしばや
  太鼓や鉦・指笛、にぎやかな音に囃子歌がひびき、ひょうきんなお面をつけた人々が踊るのです。この諸鈍シバヤは平資盛が土地の人を招いて上演したのが始まりといい伝えられています。
 毎年旧暦9月9日に大屯神社で演じられる諸鈍シバヤは女役もすべて男性が演じ、紙面(かみつら)をつけるそうです。踊りには本土や琉球の影響が見られるそうです。
 平資盛の一行は喜界島を経て元久2年(1205)に諸鈍に居城を築き、薄幸な一生を送ったと伝えられているそうです。また一説では保元の乱で敗れた源為朝は八丈島から加計呂麻島に渡り、島の娘との間で実久三次郎という子をもうけたともいわれています。
 シバヤは拍子木を先頭に、三味線(さみせん)、鐘、大鼓、ホラ貝、指笛(はと)に囃され、掛け声勇ましく手振り足拍子を合わせながら楽屋入りから始まって数々の踊りが演出されるそうです。
 その中でも獅子退治(ししりき)美女(たまてぃゆ)と大蛇が出る人形芝居は見物人を引きつけ人々の心をゆさぶる芝居であったそうです。
 古来、交通の要所であった諸鈍に、琉球や大和からの文化が混じりあい、沖縄歌や指笛、外国にも本土にも通じるメロディや囃子などが混ざって、多彩な諸鈍シバヤができたようです。
 
  諸鈍長浜
諸鈍(しゅど)ぬ長浜に 
打上(うちや)ぐぃ   引く波や
諸鈍みやらぶぃ(娘)ぬ 笑い歯ぐき



諸鈍長浜のデイゴ並木
しょどんながはまのでいごなみき
鹿児島県大島郡瀬戸内町諸鈍
 諸鈍デイゴ並木は、樹齢300有余年というみごとな巨木群です。85本以上のデイゴ並木は毎年5月から6月にかけ真紅の花を咲かせます。
 花の時期はたった1週間という短さだそうです。昭和53年(1978)、町の文化財に指定されました。
 瀬戸内町の天然記念物に指定されたデイゴのうち21本が国の巨木樹に登録されているそうです。
 デイゴは梯梧と書き、学名は「 Erythrina variegata」というそうです。エリスリナともいわれマメ科の落葉高木です。沖縄県の県花にもなっているようですがここの方が迫力がありました。
 琉球大学で学生がやっている合格電報の文面は「デイゴ咲く」と打って祝福するそうです。



リリーが住んでいた家
鹿児島県大島郡瀬戸内町諸鈍
 「寅次郎紅の花」で寅さんとリリーが一緒に住んでいた家です。この家の表で満男(吉岡秀隆)と寅さんが劇的な再会を果たしました。海岸側は美しい諸鈍デイゴ並木が続いているところでした。
  前に誰かのホームページで見た「リリーの家」という大袈裟な看板も出店もなく地元の人に聞かなければどの家がリリーの家かわかりませんでした。中は台風で損害を受けたのか壊れていてわざわざ見に来るところではありませんでした。



生間
いけんま
鹿児島県大島郡瀬戸内町生間
 加計呂麻島(かけろまじま)の生間から古仁屋(こにや)への帰路にはフェリーを使いました。来るときに海上タクシーに乗るとき「いくま」までと言ったら「いけんま」だよと教えられ覚えました。
 戦時中、特攻隊の指揮官として島に渡った作家島尾敏雄の文学碑公園は呑之浦付近にあります。
 生間港にはたくさんの魚が泳いでいました。コバルトブルーと太陽の日差しでキラキラ反射していました。
 「フェリーかけろま」です。20分の船の旅です。乗用車で6、7台運べるくらいの小さめのフェリーでした。

 生間には「ムチャカナ」伝説が残されています。「ムチャカナ」の美貌は島中の評判になり、薩摩藩から農地の竿打ち(測量)に来ていた役人(竿打殿) はこのうわさを耳にしてアンゴ(現地妻)にと所望しました。
 嫌がるチャカナを執拗に求めたため、彼女を島の外に逃亡させようとしました。対岸の嘉鉄に渡り山越えをして伊須に入港中の交易船に便乗して徳之島に渡るつもりでした。ところが伊須を出航した交易船は途中しけのため難破してしまったのです。
 幸いにして小野津の海岸に漂着でき、村人達の手厚い介護を受けました。美貌のムチャカナは有力者の許に嫁ぎ久しぶりに平穏な日を送ることができました。ムチャカナを嫁に仕損った男達や、彼女の夫に嫁ぎ損ねた娘達は恨み嫌がらせをしました。
 しかもムチャカナをアオサ採りに誘いだし磯に連れ出したのです。そして海中に突き落としてしまったのです。美人に生まれたことの悲劇の伝説です。



水中観光船せと
すいちゅうかんこうせんせと
鹿児島県大島郡瀬戸内町古仁屋下間原16ー16


 半潜水式水中観光船「マリンビューワーせと」です。抜群の透明度を誇り、東洋一といわれる美しい珊瑚礁の広がる大島海峡の水中世界を間近に満喫できます。
 澄んだ海の中を泳ぐ色どり鮮やかな熱帯魚の群れや様々な種類のサンゴ礁の華麗な姿に、50分間の乗船時間があっという間に過ぎてしまいます。
 現在の奄美大島空港は、珊瑚礁のリーフを埋め立てて作ってしまいました。空港付近の珊瑚は大丈夫なのか心配になってきます。
 とかく海の底はゴミが溜まっているところが多くそのたびに幻滅してきました。ここは本当にきれいでした。たぶんダイバーなどが時折清掃しているのではないかと思います。



ヤドリ浜
やどりはま
鹿児島県大島郡瀬戸内町ヤドリ浜


 ヤドリ浜はマリンレジャーに最適で、地元の人にも人気があるそうです。大きなガジュマルが海岸に木陰をつくり、白い砂浜が美しく弧を描いています。
 ここは奄美群島国定公園の特別地域に指定されています。ウミガメの産卵地としても有名です。
 ヤドリ浜は、奄美本島と加計呂麻島に挟まれた大島海峡の東のはずれに位置しています。湾の対岸には加計呂麻島が見え、その左手にはわずかに外洋の水平線がのぞけます。
 遠浅の海岸ですのでシュノーケリングも楽しめそうです。釣りをしている人は見かけませんでしたがおもしろいように釣れるそうです。
 海岸左の先はサーフポイントとして有名だそうです。ホノホシ海岸へつながっていて潮の流れがかなり速く激しいところだそうです。
 浜沿いには大きなガジュマルが枝をはりめぐらせており、木陰にかくれてゆっくりと過ごすこともできます。
 海岸の整備をしているユンボが一台おかれていました。平成16年(2004)に襲った台風のせいで砂が大量に失われ補充しているのだそうです。
 夜は満天の星を見ながら、この辺では唯一のホテル、マリンステイション奄美に泊りました。



ホノホシ海岸
ほのほしかいがん
鹿児島県大島郡瀬戸内町蘇刈


 奄美群島国定公園の特別地域に指定されているホノホシ海岸です。行くまでの道はあまり良い道とはいえませんが駐車場は広く、浜の手前に広がる芝生ではキャンプもできるようです。
 玉石と呼ばれる丸い石が一杯の海岸です。大きな丸石のモニュメントもありました。波が荒いので石が波で洗われて玉のような丸い石ができるのです。
 ホノホシ海岸は、奄美大島本島の最南端に位置しています。とんがった岬の先端付近ですので常に波があらく砕け散る波が岩をも削り取りました。
 直径10cmほどの大きな玉石を一面に敷き詰めた海岸です。夏場は太平洋側からうねりがやってくるので、台風が発生した時には物凄い波しぶきになるそうです。
 海岸は、中ほどに岬があり、左右に分かれています。左の写真の右側の入江は比較的穏やかです。
 岩が削り取られて空洞になっている岩から左側の入江は荒々しい波が押し寄せてきます。東映の映画の最初のショットのようです。
 絶景ですがあまり長くいたいところではありません。時おり襲う大波が足元まで濡らすからです。
 波の音だけではなく、海底の玉石も波にもまれてごろごろと音を立てます。その迫力に山育ちの私は圧倒されるばかりでした。



マネン崎
まねんざき
鹿児島県大島郡瀬戸内町


 古仁屋の東、嘉鉄(かてつ)集落手前の峠道に「マネン崎」展望台があります。案内板には嘉鉄の青壮年団が整地・管理を行っていると書かれいました。
 マネン崎付近のサンゴ礁は素晴らしく、昨日乗船した大島海峡の半潜水式水中観光船もこの付近の海底を見せてくれます。
 波の静かな大島海峡の向こうには加計呂麻島が見えます。ソテツも南国のコントラストに花を添えています。
 野生の山羊や馬が道路の近くで草を食べたりじゃれあったりしていました。誰かが飼っているにしては札などもなく急峻な場所に群れでいるのは野生としか思えません。



久根津
くねつ
鹿児島県大島郡瀬戸内町久根津
 県道79号線素意の沿いの瀬戸内町久根津付近です。古仁屋と由井トンネルの中間ぐらいの所です。
 どこから見ても大島海峡は美しい色をしています。一つ手前の集落の手安には東大医科学研究所がありハブの研究をしているそうです。



深浦
ふかうら
鹿児島県大島郡瀬戸内町深浦


 篠川湾を臨む深浦付近です。湾内には真珠の養殖用のブイなどが浮んでいます。この地方は田崎真珠がウエイトを占めているようでした。
 古くから真珠は装飾として珍重されました。それと同時に薬としても使用されています。 クレオパトラが溶かして飲んでいたことは有名ですが、日本でも解熱剤として使用され、現在も風邪薬として販売されているのです。



久慈
くじ
鹿児島県大島郡瀬戸内町久慈
 岬を一つ隔てた瀬戸内町の越地バス停付近です。前に広がるのは久慈湾です。
 本当にきれいな奄美の海岸でした。右手には数隻の漁船が停泊していた久慈漁港があります。
 久慈から名柄に抜ける山道にはハイビスカスが咲いていました。2カ所土砂崩れの箇所があり狭い道をなおさら狭くしていました。
 峠の途中にはカンツメの碑があります。美人で唄上手なカンツメの悲恋です。焼内湾の名柄港が見えてきました。峰田山も勇姿を出しました。




湯湾岳展望台公園
ゆわんだけてんぼうだいこうえん
鹿児島県大島郡宇検村湯湾
 湯湾岳は標高694mの奄美群島の中で一番高い山です。山の頂上に奄美の創世神、阿麻弥姑(あまみこ)と志礼仁久(しれにく)の二つの神を祀っています。
 標高480m7、8合目の付近の間に湯湾岳展望台公園があります。奄美十景に数えられる絶景の場所です。
 焼内湾(やけうちわん)や大島海峡、加計呂麻島が手に取るようにはっきりと見えます。湯湾岳にはアマミノクロウサギをはじめルリカケスなど古代から生き続けている動植物が多数見られるそうです。
 頂上付近全体が、昭和43年に国の天然記念物に指定され、同49年には国定公園特別保護地区に指定されています。



マテリヤの滝へ
 湯湾岳展望台公園付近にもハブが生息しているというので早々に引揚げました。湯湾から湯湾岳展望台の駐車場まで一台の車とも出会いませんでした。
 道路は狭く周りはうっそうとした密林の感じです。「ゴジラ」の撮影がこの付近で行なわれたのもうなずける感じでした。
 奄美大島では「村」は、「むら」ではなく「そん」と読むようです。湯湾岳のある「宇検村」は「うけんそん」、マテリヤの滝のある大和村は、「やまとそん」と読むそうです。



奄美フォレストポリス
あまみふぉれすとぽりす
鹿児島県大島郡大和村福元


 湯湾岳からこの付近までまたもや行き違う車はありませんでした。もしもの時は携帯も通じないので慎重に運転しました。湯湾山麓に整備された森林浴公園フォレストポリスにやっと着きました。
 約30万平方mの敷地にはヒカゲヘゴやイジュなどの亜熱帯植物が茂っています。多目的遊戯施設には、パターゴルフやアスレチック、ゴーカートもあり、キャンプ場も併設されています。
 ここは昔の福元盆地の原生林を切り開いて作られました。奄美フォレストポリスは4つのゾーンに分かれています。
 一つ目のふれあいゾーンではフィールドアスレチックやスキッドレーサーカーで遊ぶことができます。二つ目の水辺のゾーンには、マテリヤの川が流れ、水生植物やトンボなどを観察できます。
 三つ目はバンガローもあるキャンプゾーンです。四つ目の渓流ゾーンにはマテリヤの滝が含まれ滝と自然散策が楽しめる遊歩道になっています。



まほろば小滝
まほろばこたき
鹿児島県大島郡大和村福元
 マテリヤの滝の入口の道路の反対側にまほろば小滝といわれる滝があります。澄んだ水はおいしそうでした。



マテリヤの滝
まてりあのたき
鹿児島県大島郡大和村福元


 ここは福元盆地と呼ばれ、大和浜問切と焼内問切(現在の宇検村湯湾)の中間地点として重要なところでした。人々はこの山越えの道を歩き、ここの宿場で休んだのでした。当時は20数戸の人家や宿屋があったそうです。
 旅人が疲れを癒した滝がこのマテリヤの滝だったそうです。この滝は、フォレストポリスからさらに奥に入った原生林の真ん中にあります。
 マテリヤの滝は高さ12m、深さ6.7m、幅3.3mでそれほど大きい滝ではありません。木々の間から差し込む陽光がスポットライトのように滝壷を照らしているようです。
 川のまわりにはたくさんの木々がうっそうと生い茂り、昼間でも暗かったそうです。ところがこの滝の周りだけ空間が開いていて青空が見え、いつも太陽の日差しが滝を照らしていたそうです。
 本当に美しい太陽の滝つぼ「マ・ティダ・ヌ・コモリ」という発音がなまって「マテリヤのコモリ」と呼ばれるようになり、今はマテリヤの滝といわれています。
 春は山ツツジが滝壺の周辺や渓流の岩間から美しい紅の花を覗かせてことさら趣があるようです。




大棚
おおだな
鹿児島県大島郡大和村大棚
 湯湾ー大棚線の山道から大棚港を臨みました。
 大和村毛陣(けじん)トンネル手前の東シナ海です。右に見える岬はツブラ崎です。



群倉
ぼれぐら
鹿児島県大島郡大和村大和浜


 群倉(ぼれぐら)とは奄美の伝統的な高床式貯蔵庫である高倉が集まっているのを指します。大和村(やまとそん)役場近くの県道沿いに、こうした高倉が5棟保存されています。
 茅葺きの屋根部分が貯蔵庫になっています。丸くて長い柱はハブやネズミから穀物を守り、広い軒下は炎天下や雨天時の仕事場にもなりました。
  釘を一本も使用しない梁や桁を組み合わせた造りで、柱はかんなで削り上げているので足掛りがなくネズミが登れないそうです。
 風通しがよく貯蔵された物の保ちがよいそうです。大風の時も揺れても倒れづらく、火災が起きてしまったときには下部の貫木をはずすと容易に倒して延焼を防ぐこともできたそうです。
 相当古くから造られていたようで、南方から琉球を経て伝わったものと思われます。八丈島にもこれとよくにた高倉があることから黒潮文化圏の遺産ともいえるものです。



奄美野生生物保護センター
あまみやせいせいぶつほごせんたー
鹿児島県大島郡大和村


 野生生物の保護を目的とした施設です。生き物を飼育しているわけではありませんが、ビデオや模型などで奄美の自然を学習することができます。
 奄美諸島に生息するオオトラツグミ、アマミヤマシギなどの希少な野生動物や奄美固有の生態系について解説しています。
 国内希少野生動物種に指定されているオオトラツグミは奄美大島にしか生息しない鳥で、100羽余りしかいないと推定されています。
 やはり国内希少野生動物種に指定されているアマミヤマシギは、その名が示すとおり奄美諸島に固有のものです。特徴的な長いくちばしは、土の中のミミズやムカデをついばむのに適しているそうです。
 この施設のメイン「いのちの方舟・奄美諸島」というコーナーには与論島から喜界島まで奄美の島々ごとに野生生物が展示されていました。



国直海岸
くになおかいがん
鹿児島県大島郡大和村国直


 大和村国直からの思勝湾(おんがちわん)です。名瀬市から車で約30分という近距離なので海水浴やキャンプを楽しむ家族連れが多いところだそうです。
 砂浜はサンゴ砂利の広がった美しい海岸で、夏は夕日が海に沈むのがとても魅力的だと評判の所です。
 大和村は人口2千人たらずの小さな村です。奄美・沖縄の基幹作物となっている、サトウキビが日本で最初に栽培された村だそうです。平地が少ないため現在ではサトウキビの栽培は行なわれなくなってしまったそうです。



つつじ山
つつじやま
鹿児島県奄美市名瀬根瀬部小又
 つつじ山は、県道名瀬瀬戸内線から約四百b海側に入った丘陵地帯にあります。
根瀬部地区の小又と中又地区一帯は奄美本島でも最大のタイワンヤマツツジの群落ツツジ群生地です。
 南方系のツツジ属であるタイワンヤマツツジは屋久島が分布の北限で琉球列島に生息し、台湾、中国、インドシナに分布するツツジです。
 根瀬部沖にはイルカが顔を出すそうです。ザトウクジラの姿も見られるそうです。
 砂地に所々いくつもの岩が入り込んで、セジロクマノミヤやキンメモドキなどいろいろな魚が泳いでいます。



知名瀬海岸
ちなせかいがん
鹿児島県奄美市名瀬知名瀬海岸
 奄美国定公園特別地域に指定されている知名瀬海岸です。製糖圧搾車の改良に苦心を重ねた柏有度(かしわ ゆうと)は知名瀬集落の出身で、圧搾する木製の輪を鉄輪車という鉄製のものに改良しました。



大浜海浜公園
おおはまかいひんこうえん
鹿児島県奄美市名瀬小宿字大浜701ー1


 奄美大島を代表する海岸で平成8年(1996)に日本の渚100選に選ばれた海辺に広がるレジャー基地です。もちろん奄美群島国定公園に含まれています。
 アダンやバショウなど亜熱帯植物が密生する南国ムード漂う砂浜で若者に人気のスポットだそうです。海水浴やバードウォッチングなども楽しめるサイトです。
 海水浴場はゴールドビーチと呼ばれ、黄金色に輝く砂浜と、東シナ海の青い海のコントラストは格別の美しさがあります。
 公園内には奄美海洋展示館などもあります。「海と人との共生」をメインテーマにあげ、サンゴ礁の海底から砂浜、浜辺の森までを再現した水槽などでサンゴ礁の海を演出しています。
 また、大浜海浜公園は海亀の産卵地としても知られています。



おがみ山公園
おがみやまこうえん
鹿児島県奄美市名瀬永田町大字金久字永田字上の岸字配田


 「おがみ山」は、古くから名瀬市の生活の山であり、信仰の対象にもなっている山です。御神山か拝山かと諸説ありますが神の山として崇拝されています。
 標高236mの展望台から市街地や名瀬港が眼下に一望できます。園内にはヒカゲヘゴやアダンなどの亜熱帯植物が自生し、市内とは思えないほどの原生林が広がっています。
 復帰広場は昭和28年(1953)に奄美群島が本土に復帰した記念に造られたものだそうです。日本復帰運動の悲願達成のため全力を尽くし断食運動などで抗議した泉芳朗氏の胸像と「断食悲願」という詩が碑文となって残っています。
 終戦後、奄美群島は日本から切り離され、アメリカの軍政下におかれました。8年後の昭和28年(1953)12月25日、奄美群島全体の悲願であった日本復帰はようやくかなったのでした。
 わたしはただ一介痩身の無名詩人
 樹間に湧く無量の感に涙しぼり
 地に満つる落葉や雑草にも

泉芳朗詩 碑文
 無情の声を呑み
 天かける白雲に
 うたた民族流離の歌をきく
 よしや骨肉ここに枯れ果つるとも
 八月の太陽は
 燐として今天上にある
 されば膝を曲げ頭を垂れて
 奮然五体の祈りをこめよう
 祖国帰心
 五臓六腑の矢を放とう
   昭和26年8月(断食悲願の詩より)
 山道の途中には横綱朝潮昇進記念碑がありました。徳之島町出身の第46代横綱「朝潮太郎関」横綱昇進を祝った記念碑です。



奄美博物館
あまみはくぶつかん
鹿児島県奄美市名瀬長浜町517


 本土と沖縄の間で独自の歴史と文化を育んできた奄美の実情や戦後の奄美諸島の祖国復帰運動についても学べるようになっていました。
 1階は海の文化について展示されています。島の生活史上欠かせなかった船や漁具が展示されています。
 2階は島の暮らしと文化が展示されています。昔の生活用具やノロ(神女)の使う祭具が並んでいます。
 3階は自然についてのコーナーです。森やサンゴ礁の海をパネルやジオラマで解説しています。



奄美文化センター
あまみぶんかせんたー
鹿児島県奄美市名瀬長浜町517


 奄美文化センターの名に奄美博物館は含まれています。ホールや一万人ひろば、奄美の民家なども併設しています。

奄美の民家
 瀬戸内町管鈍に残っていた眞島家の民家を移転したものです。奄美の民家はオモテと呼ばれる主屋や座敷、トーグラと呼ばれる台所や居間で構成されています。
 ここに展示再現されている民家はオモテだけですがナカエ(ヤ)入れた3棟で構成されている民家もあるようです。オモテとトーグラはトイマとかカヨイと呼ばれる渡り廊下でつながっています。
 屋根の間には木をくり抜いた樋(とい)をつるして雨に濡れないように工夫しています。



名瀬港
なぜこう
鹿児島県奄美市名瀬塩浜
 名瀬港は、奄美群島中最大の島である奄美大島の北西部に位置し、奄美諸島各港を結ぶ海上交通の拠点として発展してきた重要な港湾です。
 奄美へのフェリーへの玄関口です。東京〜志布志経由名瀬ライン、神戸〜大阪〜経由名瀬ライン、鹿児島からの直通ラインなどがあります。



名瀬湾
鹿児島県奄美市名瀬
 名瀬市大熊(だいくま)付近の開通記念碑がある展望台から見た名瀬湾です。地元の人は「名瀬」を「なぜ」とはいわずに「なせ」と呼びます。
 大熊には田中一村が通っていた大島の紬工場があったところだそうです。



秋名
あきな
鹿児島県大島郡龍郷町秋名
 龍郷町の秋名付近です。「秋名アラセツ」は400年の伝統を誇る古くから伝わる稲作儀礼です。国指定重要無形民族文化財です。



安木屋場のソテツ群生
あんきゃばのそてつぐんせい
鹿児島県大島郡龍郷町安木屋場


 龍郷町の安木屋場(あんきゃば)にあるソテツ群生地です。東シナ海に面した山の斜面一面に、ソテツがびっしりと群生しています。
 ソテツは成長するのが遅いので、大きなものでは200年以上のものもあるそうです。
 近くには大きな葉をのばした糸芭蕉の群生地もあるそうです。



西郷南洲謫居跡
さいごうなんしゅうたっきょあと
鹿児島県大島郡龍郷町龍郷166


 安政6年(1859)西郷隆盛(号は南洲)が薩摩藩の怒りをかって流された場所です。召還命令が下るまでの3年間この家で暮らしました。島の名家であった龍家の娘・愛加那(あいかな)という娘と結ばれ、2人の子ももうけました。
 井伊直弼の強引で横暴な政治方針に対抗するため島津斉彬は兵を率いて京都に入り、京都朝廷より幕政改革の勅許を受け、強大な兵力を背景に、井伊大老を中心とする幕府に対し改革を迫ろうとしました。
 西郷隆盛は斉彬の命を受け、その前準備のために、京都に先発しました。安政5年(1858)7月16日、朝廷方面の下工作を手がけている時、斉彬が急逝してしまったのです。
 井伊大老は「安政の大獄」といわれる幕府に批判的な者を一斉に捕縛し処刑し始めたのです。薩摩藩と京都朝廷との橋渡し役を務めていた月照も追われました。西郷は月照を薩摩藩内に匿おうとしましたが藩政府の方針は一変していました。
復元された西郷が設計した木造家屋です。
 藩政府は西郷に、月照を国外に追放するように命じました。安政5年(1858)11月16日、絶望した西郷と月照は冷たい鹿児島錦江湾の海に身を投じたのでした。西郷吉之助30歳のことでした。そして西郷だけが助かったのです。
自筆の書、枕などとともに公開されています。



西郷松
さいごうまつ
鹿児島県大島郡龍郷町龍郷


 西郷隆盛は奄美大島へ流されました。一緒に身を投じた月照は絶命しました。月照には幕府から捕縛命令が出ていたのです。奇跡的に蘇生した西郷は、先君・斉彬の無二の寵臣であったことから、名前を変えて流罪にしたのでした。
最初に舟の縄をかけた松が「西郷松」として残っています。
 安政6年(1859)1月12日、藩の黒糖運搬船「福徳丸」に乗ってきた西郷はこの地龍郷に上陸しました。年6石の扶持が付いていたといわれていますので島流しよりは軽かったようです。
 文久2年(1862)1月29日、鹿児島召還のときもここから乗船したそうです。新藩主の実父で事実上の藩主であった守旧派の島津久光の怒りを受け同年の6月12日、徳之島、のちに沖永良部へ再び流されてしまいました。
 元治元年(1864)2月11日、沖永良部から赦免召還されました。途中この地に上陸し、愛加那母子と面会したそうです。2月26日この地より乗船し、愛加那との最後の別れとなりました。
 島妻制度の掟に従い、二人の子供は西郷本家にひきとられ、愛加那さんは、一人淋しく明治35年(1902)65歳で亡くなったそうです。長男の菊次郎は後に京都市長になったそうです。
西郷が上陸した美しい海岸です。
 赦免された西郷は京都に上りました。朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としましたが、坂本龍馬の仲介で、木戸孝允と謀って薩長連合を結成しました。慶応3年(1867)12月ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として大功を樹て、明治維新の基礎を確立したのです。
龍郷町瀬留
 明治4年(1871)薩摩へ帰郷していた西郷は参議として新政府に復職しました。陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保利通、木戸孝允ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導しました。
 その際、朝鮮出兵を主張する征韓論に傾倒し、開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを主張し、帰国した大久保らと対立しました。
 明治6年(1873)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻りました。明治10年(1877)、私学校生徒の暴動から担ぎ出され西南戦争に発展します。善戦したものの自らも足と胸に弾丸を受け、城山で自刃しました。享年50才でした。
 西郷は「吉之助」、号は「南洲(なんしゅう)」と名乗っていました。本名は「隆永(たかなが)」でした。隆盛という名は、明治天皇が西郷を表彰する際に、吉井友実に公式の場で使う諱を訊ねた時、彼の父の名「隆盛」が西郷の名であると勘違いし、これが誤って広まってしまったそうです。



奄美大島紬村
あまみおおしまつむぎむら
鹿児島県大島郡龍郷町赤尾木1945


 薩摩藩の藩政時代からのサトウキビ栽培と大島紬の生産は奄美大島の財政の柱でした。大島紬はなんと80工程にもわたる複雑なプロセスを経て出来上がるそうです。
 国の「伝統的工芸品」の指定を受けた奄美大島の織物「大島紬」。奄美大島紬村では職人たちの匠の技を工程に沿って見学できるようになっています。泥田での泥染め体験、手織り体験、着付け体験なども受付てくれます。
 本場大島紬は、経糸・横糸ともに絣(かすり)括りされた糸を使用する「経緯絣(たていとかすり)」の大島紬と、横糸のみに絣(かすり)括りされた糸を使用し、たて糸に縞や無地の地糸を使用する「よこそ」と呼ばれる大島紬に大別されています。



赤木名
あかぎな
鹿児島県奄美市笠利町赤木名
 笠利町の赤木名付近の海を臨める休憩所です。赤木名は奄美大島では名瀬、古仁屋につぐ町だそうです。笠利町役場もここにあります。
 今まで走ってお世話になった奄美大島の国道58号線は赤木名と書かれた交差点が起点になっているそうです。
 藩政時代の仮屋、つまり代官所は赤木名にあったそうです。何度か大熊に配置替えになり交互に移動したそうです。



しまうた
 奄美では生活のなかで大島紬を織りながらこの島唄を口ずさんだそうです。またイタツケと呼ばれる奄美独特の船を作りながら唄ったそうです。
笠利町三鳥屋
 現存する島唄は2千を数えるそうです。薩摩藩の圧政の中であらゆるものを奪いつくされてもしまうただけは残りました。
笠利町三鳥屋
 シとファにあたる音が存在せず、そのために哀調を帯びたメロディとなっています。沖縄ではレとラの音がありません。
笠利町三鳥屋



蒲生崎観光公園
がもうざきかんこうこうえん
鹿児島県奄美市笠利町屋仁


 蒲生崎観光公園は、寿永4年(1185)壇ノ浦の合戦に破れた平氏が奄美にまで逃げ延びて、ここに源氏の追っ手に備えて見張り台を作ったといわれているところです。
 海抜120mの高台からは太平洋と東シナ海が一望できます。展望所からは笠利崎、小宝島、宝島、上ノ根島、横当島などが遠望できます。
  源氏の追手の船を警戒した平有盛(たいらのありもり)・行盛(ゆきもり)は、この蒲生崎(屋仁崎)に遠見番を設けたそうです。
 見張りをしたは蒲生左右衛門(がもうざえもん)という平有盛の家臣でした。蒲生崎神社はこの蒲生左衛門を祭神として建てられています。
 笠利湾の入り口をはさんだ反対側の安木屋場崎には今井権太夫という武士を充てて近海を監視させ、敵の襲来に備えたそうです。
 雄大な景色と海に沈む夕日が美しいところとして有名なスポットです。
 「スチュワーデス刑事」のロケ地にも使われたことがあるようですが道が狭く大型バスは入れない感じです。海側に落ちれば大変ですので道すがらの景色は見ないようにしていました。
 近くに「みなとや」という料理屋があるそうです。ここも同じ番組で使われたようですが「鶏飯」を創作した所なのです。ここの岩城さんが名付けた料理なのです。
 今上天皇が皇太子時代に妃殿下と一緒に来島された際にこの「鶏飯」を献上し、お代わりまでされたたことから一躍有名になったそうです。
 頂上付近には三角点がありました。三角測量を行う時に地表に埋定された基準点です。経度・緯度の基準になるのが「三角点標石」です。



土盛海岸
ともりかいがん
鹿児島県奄美市笠利町


 土盛海岸は奄美北部にある美しい海岸です。奄美空港から10分ですのでテレビのロケなどにも使われることが多いそうです。
 通称ブルーエンジェルといわれる濃いグリーンの海です。透明度が高く、遠浅の海のブルーは幻想的で白い砂浜とマッチしています。
 波打ち際はキメの細かい砂浜が続きますが、海の中自体は岩場が多く、ダイビング、海水浴、ウインドサーフィンに最適だそうです。
 東の方にはかすかに喜界島の島かげが見えました。



あやまる岬
あやまるみさき
鹿児島県奄美市笠利町須野


 奄美の乙女達は正月になると赤、青、黄のいろとりどの糸で刺繍したきれいな手鞠で手鞠歌をを唄いながら手鞠つきをしたそうです。
 この岬の一帯のなだらかな地形が「アヤに織られた手鞠」によく似ていたことからいつの頃からか「アヤマル」と呼ばれるようになったそうです。
 岬に説明板には「由来は、あやに織りなした鞠の如く美しい岬というところからつけられた」同様な事が書かれていましたが別の意見もあるようです。
  「あや」というのはぼんやりと見えにくいことを指していて、転じて「山の一番遠いところ、はるかに高い所」の意味になるそうです。
  「まる」とは「まり」が変化したものだといいます。「まり」お尻のこと指します。つまり、あやまる岬から内陸に見える山の向こう側からの名称として遠くの山のその端(尻)にある岬からあやまる岬になったというのです。
 いずれにしても素晴らしい眺望です。奄美十景のひとつ、あやまる岬の展望台です。太平洋が一望できるのです。
  岬に立つと眼下には白い砂浜と遠浅のサンゴ礁の海が広がっていて雄大な景色に見とれてしまいます。
 天気がよければ奄美大島北端の笠利崎や隣の喜界島まで見渡せます。このあやまる岬のサンゴ礁海岸はリアス海岸の大島海峡一帯と湯湾岳付近の山地とともに、昭和49年(1974)奄美群島国定公園に指定されています。
 丘の裾野のアダンやソテツの群生も見事です。ここは岬というより公園という感じです。高台の公園と下の公園と2つの大規模な公園です。

 奄美群島においては、それぞれの集落を「シマ」と呼び、同じ集落の人を指して「同じシマの者」というそうです。
 集落が違えば、余所のシマの人という意味で「ヨソジマの者(人)」というそうです。
 奄美群島に住んでいる人や出身者の人に対しては「シマッチュ(島の衆)」と呼びます。それ以外の人は「ヤマトンチュ(大和の衆)」と呼ぶそうです。



あやまる観光公園
あやまるかんこうこうえん
鹿児島県奄美市笠利町須野


 あやまる岬のすぐ近くには、大人や子供が楽しめる遊具施設いっぱいの公園、あやまる観光公園があります。
 高台からの眺めとは違って海がより身近に感じられます。海からの風も心地よいです。海水プールなども備わっています。
 ファンシーサイクル、サイクル列車などがあり広場や美しい海岸で有名な土盛海岸までつながるサイクリングコースもあります。



あやまるソテツジャングル
鹿児島県奄美市笠利町須野


 あやまるソテツジャングルです。
奄美大島では食料がないとき、ソテツの種子や幹を利用した「蘇鉄ガユ」「ナリ味噌」で窮地を凌いだそうです。
 ソテツは成長するのが遅いので、大きなものでは200年以上のものもあるそうです。
 ソテツは海岸山地を問わずいかなる痩せ地にも生育し風土にあった植物であったことから大事に育てられてきたそうです。
  奄美大島の至る所にたくさんのソテツが自生しています。このほとんどが山肌や赤土に群生していますが、ここあやまるのソテツは砂地に群生しています。
  あやまるのソテツ群は砂地に育つソテツとしては奄美一の群生だそうです。



笠利町歴史民俗資料館
鹿児島県奄美市笠利町須野670


 あやまる岬近くにある資料館です。数多くの資料が収蔵展示され,奄美文化の研究の拠点になっています。
 先史時代の遺跡の出土品をはじめ、昔の衣類や農具といった民俗資料を展示しています。「奄美の歴史と文化−黒潮の民の足跡−」をテーマとして構成されています。
 奄美は古代から「道の島」として知られ,南島と九州を結ぶ文化交流の道となっていました。笠利町からは数多くの遺跡が発見されています。
 サンゴ臼です。
サンゴで作られためずらしいジャンボ臼です。芋洗いなどに使用されていたようです。
 近世墓地です。
奄美の近世の墓地はトフル墓のような石墓が多かったそうですが今ではほとんど見ることができないようです。
 ノジュウルです。層のズレによって泥と鉄分が一カ所に集まってできたものです。これほどおおきいものは日本でもかなり珍しいといわれています。
 「砂白く 潮は青く 千鳥啼く」
  田中一村のものです。奄美の色彩豊かな亜熱帯の自然を描いた明治生まれの日本画家、田中一村の詩や手紙、作品のレプリカも展示しています。
 資料館の裏手はかつて一村が太平洋を写生した場所で、今は田中一村の碑が立っています。
 「念ずれば   花ひらく」



大瀬海岸
おおせかいがん
鹿児島県奄美市笠利町


 大瀬海岸は、奄美群島では最大の海鳥の渡りの中継地であり休息場所です。奄美の海岸の中でもとりわけ美しいといわれる土盛海岸のすぐ隣の海岸です。
 バードウォッチングの観察ポイントとして有名で全国からマニアの人がやってくるそうです。海岸線沿いにはサイクリングロードもあり灯台も見えます。
 夏期はセッカ、コサギ、クロサギ、イソシギアジサシなどが群れ飛び、冬期はハクセキレイ、ダイサギ、シギやシロチドリ、カモやウなどが集まっているそうです。
 奄美大島の野鳥の紹介をしている看板です。写真付きなのでわかりやすく説明してありました。



大島紬民芸村
おおしまつむぎみんげいむら
鹿児島県奄美市笠利町宇宿
 大島紬で世界で1枚のオリジナルデザインを体験できます。



太陽が丘総合運動公園
たいようがおかそうごううんどうこうえん
鹿児島県奄美市笠利町
 大瀬海岸からほど近い山側に小さな町には不釣り合いのような立派な総合運動公園がありました。
 日本陸連のオリンピック強化選手一行が合宿を張ったり、Jリーグの横浜フリューゲルスやヴェルディ川崎なども合宿したそうです。太陽が丘という名前で統一されています。
 平成2年度に地域づくり推進事業、平成4年度に若者定住促進事業の事業指定を受け平成2年度から平成8年度までの7年間に総事業費37憶6千万円もの巨費を投入したそうです。
 このあたりの人はうらやましいです。ほんとに素晴らしい散歩コースなのです。



奄美パーク
あまみぱーく
鹿児島県奄美市笠利町


 旧空港跡地に建設されたばかりの奄美パークです。道路沿いの入口付近には奄美の民家も再現されています。
 民家を見ながら上っていくと大きなドームが見えてきます。「奄美の郷」という展示館です。駐車場も広く南国の木々も植えられていてムード満点です。
 奄美の自然を紹介するミニシアターや、画家・田中一村の美術館が併設されています。
 奄美諸島の5つの島(喜界島、奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島)を個別に紹介するブースがあり各島の特徴が説明されます。
 島唄をゆっくり聴くことができる装置があります。これを聞きながら加計呂麻の諸鈍シバヤも見ることができるのです。



田中一村記念美術館
たなかいっそんきねんびじゅつかん
鹿児島県奄美市笠利町 奄美パーク内


 日本画家の田中一村は明治41年(1908)7月22日栃木県に生まれました。奄美の自然に魅せられ、昭和33年(1958)、50歳のときに奄美に移り住みました。日本のゴーギャンともいわれています。
 泥染工をしながら亜熱帯の植物や魚を精密な写生と大胆な構図で描き続けた田中一村でしたが無名のまま昭和52年(1977)、名瀬市の借家でひとり夕食の準備をしているときに心不全で倒れ69才の生涯を終えたそうです。



ばしゃ山村
鹿児島県奄美市笠利町用安1246
 飛行機の出発まで少し時間があったので「ばしゃ山村」というところのAMAネシアというレストランで食事をしました。ここの名物は地元郷土料理の鶏飯です。
 鶏飯の始まりは藩政時代に赤木名にあった代官所に赴任してきた役人たちを接待して、少しでも年貢を抑えてもらおうと村人たちが生み出したことから始まったそうです。
 最初はトリ飯のような炊き込み飯だったそうです。岩城という女性が郷土料理復活のために現代風にアレンジして今の形を作り「鶏飯」と名付けたそうです。
 鶏飯は、鶏肉、椎茸、錦糸玉子、青ねぎなどの具をご飯の上にのせ、アツアツの鶏のだし汁をかけて食べるいわばお茶漬けです。
 奄美大島には大手のコンビニエンスストアは少ないのですがどの店に行っても必ずお弁当には鶏が入っていました。
 ばしゃ山村は美しい海岸に面していて水上スキーなどを教えていました。奄美民族村やホテル、窯元などもありました。



喜子川遺跡
きしかわいせき
鹿児島県奄美市笠利町
 喜子川遺跡は昭和57年(1982)に発見されたそうです。発掘調査は学術調査団を組織して、高梨学術奨励基金や笠利町から援助を得て進められたそうです。
 「爪形紋土器」「アカホヤ火山灰層」「集石遺構」などが層をなして確認されたそうです。出土遺物は笠利町歴史民族資料館に展示、保管されています。


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